年間第26主日・A年(23.10.1)

「後(あと)で回心して出かけた」

 

回心して必ず生きる(エゼキエル18:28参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、バビロンの捕囚地で、活躍した預言者エゼキエルの回心(かいしん)を呼び掛ける切なる預言を伝えています。

 ちなみに、この預言者エゼキエルは、何と捕囚民の一人としてエルサレムから1千キロ以上も離れたバビロンのケバル河(がわ)の河畔(かはん)で、預言者としての召命を受けたというのです(同上1:1-3参照)。

 ですから、先祖の罪のため強制移住させられていたイスラエルの民に預言するよう命じられました(同上2:1-3:15参照)。

 しかも、今日の箇所は、個々人(ここじん)の回心(かいしん)の大切さについて力強く次のように強調していると言えましょう。

「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は回心(かいしん)して、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」と。

 このエゼキエルこそ、捕囚民のただ中で、預言者として孤軍奮闘したのですが、実は、17章では、エルサレムの最終的回復によって自らを歴史の支配者として啓示する神を強調するのに対して、18章では、特に個人の生と死をも支配なさる神を強調していると言えましょう。

 

同じ思いとなり同じ愛を抱き(フィリピ2:2参照)

  次に、第二朗読ですが、使徒パウロが、第二回宣教旅行の途中、ヴィジョン(幻)を見たのをきっかけに、マケドニア州のフィリピにヨーロッパにおける最初の教会を設立したのが、フィリピの教会でした。ちなみに、この町に定住していたユダヤ人は少数だったので、まだ会堂はなかったということです。

 ですから、少数のキリスト者が、信仰を守るために一致協力することを、次のように、獄中(ごくちゅう)から強調しています。

「ただひたすら、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。わたしが出かけて行ってあなたがたに会うにしても、離れたままいるにしても、あなたがたが一つの霊に支えられてしっかりと立ち、福音に基(もと)づく信仰のために心を一つにして、力を合わせて闘い、どんな場合にも敵対する者たちに脅かされはしないということを聞きたいものです(同上1:27-28a)。」と。

 続いて今日の箇所で、共同体の一致のために相互の愛と特に謙遜が必要なことを、次のように強調します。

「皆さん、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊“による交わり、それに慈しみや憐れみがあるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」と。

 続いて、次のように勧めています。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」と。

 そして、すでに初代教会で歌われていたキリスト賛歌を、キリストの謙遜を模範として引用しています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスにひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主(しゅ)である』と公(おおやけ)に宣(の)べて、父である神をたたえるのです。」と。

 ここで言われている「名」ですが、旧約時代には、名は、その実体(じったい)を表すという思想から、名を知り合うということは、親密な関係を示し、特にユダヤ人の間では、神の名がみだりに呼ばれることが恐れられたのは、神の実体(じったい)に容易に触れてはならないからといえましょう。

 新約聖書では、まずイエスの名は「インマヌエル」と呼ばれ、この賛美歌で強調されているように「あらゆる名にまさる名」を、与えられたのです。

 

徴税人や娼婦たちの方が あなたたちよりも先に神の国に入るであろう(マタイ21:31c参照)

 最後に今日の福音ですが、福音記者マタイだけが、伝える祭司長と民の長老たちに話された二人の息子のたとえであります。

 文脈は、神殿から商人を追い出したイエスに「何の権威でそのようなことを行うのか(同上21:23b)」と詰め寄る祭司長や長老たちに対して、イエスは、「あなたたちはどう思うか。」と、逆に問いかけ、ご自分の権威(けんい)について教えられます。

 とにかく、祭司長や長老たちは、律法を守ることによって神の掟に忠実に従っているエリートだと自慢(じまん)していたようです。

 ですから、今日の「二人の息子のたとえ」に、登場する「弟」は、当時の祭司長や長老たちを、象徴的に示していると言えましょう。

 ちなみに、この弟の父親に対する返事ですが、「お父さん、承知しました」は、直訳すると「私は(準備できています)、主よ」となります。

 ですから、父親に向かって「主よ」と、まさに自負心をもって答えているのではないでしょうか。

 とにかく、当時の社会のエリートたちは、確かに神の掟に忠実に従おうという気持ちは持っていたようです。けれども、実際には掟を完全に守ることができなかったので、結局「出かけなかった」ことになるのでしょう。

 ところで、兄のほうは、このたとえに登場する「徴税人や娼婦たち」を、表しています。

 つまり、彼らは、神の掟を忠実に守ることができない自分自身を自覚し、心の痛みを感じていたので、「後で考え直す」ことが、出来たのではないでしょうか。ここで、イエスは、当時の人々の洗礼者ヨハネに対する態度を、確認なさいます。

「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたがたは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で回心し彼を信じようとしなかった。」と。

 わたしたちも、ミサの初めに、司式司祭と一緒に回心の祈りをとなえます。

 つまり、回心は、日々必要な神に対する根本的な心の在り方の確認ではないでしょうか。

 ですから、近年、改心を回心つまり、回す心という当て字で、自分中心の生き方から、神中心の生き方への根本的切り替えを確認することが必要なのではないでしょうか。

 まさに共同ぐるみで、回心できるように共に祈りましょう。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st231001.html