「あなたたちもぶどう園に行きなさい」
わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている(イザヤ55:9参照)
今日の第一朗読は、第二イザヤの、捕囚民に対しての希望と慰めのメッセージの最後のくだりに他なりません。
それは、メシアとしてのペルシャの王キュロスによって、ようやく捕囚民が解放され、半世紀ぶりに故国に帰ることができるという預言を締めくくる箇所と言えましょう。
ですから、次のように叫びます。
まず、「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち返るならば、豊かに赦してくださる。」と宣言します。
けれども同じ第二イザヤは、すでに44章で、次のような極めて大胆な預言を強調しています。
「思い起こせ、ヤコブよ
イスラエルよ、あなたはわたしの僕(しもべ)。
わたしはあなたを形づくり、わたしの僕(しもべ)とした。
イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。
わたしはあなたの背きを雲のように
罪を霧のように吹き払った。
わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖(あがな)った(同上44:21-22)。」と。
なんと、神に立ち返ったので罪が赦(ゆる)されたのではなく、すでに罪と背きを吹き払ってくださったので、神に立ち帰ることが出来るというのです。
続いて預言が、次のように強調されます。
「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
天が地を高く超えているように
わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」と。
ちなみに、弟子たちのリーダーペトロが、イエスが受難を経て復活させられることになっていると、初めて知らされたとき、彼は思わず次のようにイエスを、いさめ始めたというのです。
「『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている(マタイ16:22b-23)。』」と。
つまり、ペトロは、人間の思いに凝り固まっていて、神の思いに切り替えることが出来なかったのではないでしょうか。
ですから、わたしたちも、預言者たちのように、神のみことばを聴くだけでなく、しっかり食べてこそ初めて神の思いに到達できるのではなしでしょうか。
ちなみに預言者エレミヤは、次のような体験を分かち合ってくれます。
「あなたのみ言葉が見いだされたとき、
わたしはそれをむさぼり食べました。
あなたのみことばは、わたしのものとなり
わたしの心は喜び躍りました(エレミヤ15:16)。」と。
後(あと)にいる者が先になり先にいる者が後(あと)になる(マタイ20:16参照)
次に今日の福音ですが、マタイが語るぶどう園で働く労働者のたとえであります。
まず、「天の国は次のようにたとえられる。」と、主題が設定されます。
つまり、神の国の完成のために、神の民の全員がどのように働き、また、その報酬(ほうしゅう)にあずかることができるのかを、ぶどう園での労働者の働きと、その報酬(ほうしゅう)についてのたとえにほかなりません。
まず、「ぶどう園」ですが、旧約時代からイスラエルの民にたとえられ、その世話をする労働者は、民の世話をする祭司や、長老などを表してきました。
ところが、マタイによる福音書では、神の民の全員が、神の国を広め、神の国のための働き手となることが求められています。ですから、イエスは次の宣言をしておられます。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(同上6:33)。」と。
ですから、このたとえに登場する労働者たちは、神の国の働き手となるよう招かれていることから、まさに神の民の一員となるように呼(よ)ばれていると言えましょう。
したがって、このぶどう園の主人は、明らかに神ご自身を表しています。しかも、このたとえで明らかなように大勢の働き手を必要とする大きなぶどう園の主(あるじ)に違いありません。
まず、初めに雇われた労働者がぶどう園に派遣されますが、次に雇われたのは、「何もしないで広場に立っている人々」です。
さらに、最後には、「何もしないで一日中立っている人々」も、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と、派遣されます。
つまり、神の民の全員が、神の国の完成のために、それぞれの召命に応じて派遣されているのです。
ですから、来月ローマで開催(かいさい)されるシノドス(世界代表司教会議)には、男女の信徒も、「参加、交わり、宣教」をスローガンに参加します。つまり、神の民の全員が参加できる会議に切り替えたのであります。
ちなみに、教皇フランシスコは、近年、出向いて行く教会になるよう呼び掛けておられます。
「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。
アブラハムは、新しい土地へと出て行くようにという召命を受け入れました(創世記12.1-3)。
モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』という召命を受けて、民を約束の地に導きました。
神はエレミヤに言います。『わたしがあなたを、だれの所へ遣わそうとも、行け』。
今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』ということばは、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれています。すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主の求めている道を識別しなければなりませんが、わたしたち皆が、その呼びかけに応えるようにそれぞれの召命をいただいています。
つまり、自分のとって快適な場所から出て行って、福音の光を必要としている隅(すみ)においやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つように呼ばれているのです(『福音の喜び』20項)。」と。
今日(きょう)のぶどう園のたとえのように、わたしたちは、それぞれの人生の歩みにおいて生涯(しょうがい)かけて全うする召命をいただいたのですが、また同時に主は、まさに時宜(じぎ)にかなった呼び掛けをなさっておられるのではないでしょうか。
ですから、いつも柔軟(じゅうなん)なこころで日々新たにされる召命に忠実に応えていかなければなりません。
このミサで、わたしたちは今日(きょう)いただいた主の呼び掛けに忠実にお応えできように、派遣されるのです。
しかも、この派遣には、召命を実践できる聖霊の助けがセットされています。