年間第24主日・A年(23.9.17)

「心から兄弟を赦さないなら 天の父も同じようになさる」 

 

父母に対する子どもの務め(シラ3:1-18参照)

  今日の第一朗読は、知恵文学に属するシラ書27章と28章からの抜粋(ばっすい)で、テーマが赦しですが、それは、今日の福音のテーマですので、シラ書からは、父母に対する子どもの務めについての次の箇所を紹介します。

「子どもたちよ、父であるわたしの戒めに耳を傾け、そのとおりに行なえ、そうすれば、おまえたちは安らかに過ごせる。

 主は子どもを持つことによって、父に誉れを与え、

 息子たちに対する母の権利を確立した(シラ3:1-2)。」と。

 シラ書は、しばしば家庭問題を取り扱うのですが、ここでは父母に対する子女の心構えを述べています。

 ここで言われている「安らかに過ごせる。」ですが、この救いはキリスト教的永遠の救いをさすのではなく、地上的幸福が約束されると言う意味といえましょう。

「父を敬う者は罪を償(つぐな)い、

 母をあがめる者は宝を積む者に等しい(同上3:3-4)。」と。

 神に対する罪を償(つぐな)う者は、エルサレムの神殿でいけにえをささげることに限らず、神の命令に従って善を行うこと、父母を尊敬すること、施(ほどこ)しをすること、他人をゆるすこと、断食をすることなどが出来ます。

「宝を積む」とは、共に善業を積むことによって、永遠のいのちを得ることができるというのです。

「父を敬う者は子どもから喜びを受け、

 祈るときの、その祈りは聞き届けられる。

 主に聞き従う者は、母にやすらぎをもたらす。

 そのような人は、あたかも主人に仕えるように、その生みの親に仕える(同上3:5-7)。」と。

「言葉と行いをもって、父を敬え。

 そうすれば、父の祝福が、おまえの上に臨むだろう(同上3:8)。」と。

 

生きるにしても死ぬにしてもわたしたちは主のものです(ローマ14:8参照)

 次に今日の第二朗読ですが、文脈からすれば、ローマの教会への手紙の14章は、「兄弟を裁くな」について具体的な忠告をしたためている箇所であります。ですから、14章は、次のような勧告で始められています。

「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えをとやかく言ってはなりません。・・・

 ある日を他の日よりも尊いとみなす人もいます、どの日も区別しない人もいます。人はそれぞれ自分の心に確信を持つべきです(同上14:1-5)。・・・」と。

 そして、今日の箇所に続きます。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」

 ここで、パウロは、当時のローマ教会には、キリスト教に改宗した者たちが、他宗教の慣例(かんれい)に対して取るさまざまな態度を問題にしているのです。

 ですから、それぞれの生き方を尊重して、決して兄弟を裁いてはならないと勧告しているのではないでしょうか。

 つまり、キリスト者は、それぞれの違いを超えて、みんな主のために生き、主のために死ぬことで一致していることが肝心であると主張しているのです。

 ちなみに、パウロは分裂さわぎのあったコリントの教会に次のような適切な勧告をしたためています。

「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。・・・だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって、『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要なのです(一コリント12:13-22)。」と。

 

お前も自分の仲間を憐れんでやるべき(マタイ18:33参照)

 最後に今日の福音ですが、イエスがペトロに向かって兄弟を無制限に赦すことの大切さを、たとえを用いて優しく語られる場面にほかなりません。

 まず、ペトロは、弟子たちを代表してイエスに尋ねます。

「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と。

 ちなみにユダヤ教のラビ(教師)は、兄弟を赦す回数を三回までと教えていますので、「七回」は、寛容さ(かんよう)を示しているといえましょう。

 ところで、ペトロは、この場面で、「赦し」を「自分の受けた損害を我慢すること」と受け止めていたのではないでしょうか。ですから、我慢には限度があり、従ってそのような赦しにも限界があります。

 それに対してイエスは、断言(だんげん)なさいます。

「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」つまり、無制限(むせいげん)に赦しなさいと命じられます。

 イエスが、問題にしているのは赦す回数ではなく、あくまでも赦しを制限する「赦さない心」ではないでしょうか。

 ですから、たとえを用いて、天の国を、貸借(たいしゃく)を清算する王にたとえて説明なさいます。

 まず、王の前に引き出されたのは、なんと一万タラントンという巨額(きょがく)の負債者(ふさいしゃ)です。ですから、王の命じる通りに自分の持ち物をすべて売り払ったとしても、とうてい返済(へんさい)できる額(がく)ではありません。

 そこで、「その家来を主君(しゅくん)はあわれに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」と言うのです。つまり、王の「深い憐れみ」「赦し」となって表現されたのです。

 ところが、この巨額の負債を赦された家来(けらい)は、たった百デナリオンの借金がある仲間に出会うと、自分が王にそうしたように「待ってくれ」と懇願(こんがん)するのも聞かず牢に入れたというのです。

「そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。・・・私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」

 そして、念を押されます。

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」と。

 このミサで派遣されるそれぞれの場で、赦しの大切さを告げ知らせることが出来よう共に祈りましょう。

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230917.html