年間第23主日・A年(23.9.10)

「交わり、参加、宣教」

 

互いに愛し合う(ローマ13:8参照)

  来月、バチカンで開催されるシノドスのキーワードは、「交わり、参加、宣教」でありますが、まさに教会の神の民としての本来の姿を表しています。

 それでは、早速、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、まだ一度も訪れたことのないローマの教会に宛ててしたためた教会共同体の核心に触れる勧告に他なりません。

「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。・・・そのほかどんな掟(おきて)があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。」と。

 ただここで確認すべきことですが、使徒パウロは、旧約時代の文脈において愛の掟の大切さを強調しているということです。

 ですから、イエスは最後の晩餐の席上、旧約時代の愛の掟に対して、新しい掟として次のように命じられました。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合なさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる(ヨハネ13:34-35)。」と。

 ですから、イエスの弟子たちの共同体である教会のまさに核心に触れる掟は、イエスが与えて下さった新しい愛の掟に他ならないのです。

 さらにヨハネは、互いに愛し合うなら神に愛がわたしたちの只中で全うされることを、次のように強調しています。

「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神がわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです(一ヨハネ4:12)。」

 

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしがその中にいる(マタイ18:20参照)

 つづいて、今日の福音で、マタイは、この互いに愛し合う共同体こそが、教会であることを次のように強調しています。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしがその中にいるのである。」と。

 ここで言われている「わたしの名によって」という言い回しですが、聖書においては、名前は、その人物の本質を神秘的に表し、その人物が持つ力を帯びているので、共同体の真ん中にイエスが臨在(りんざい)しておられるというのです。

 ところで、このキリストを中心としたキリスト共同体は、最後の晩さんの席上、イエスが弟子たちを、派遣なさったように福音を伝えるために出向いて行かなければなりません。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したである。互いに愛し合いなさい。これがわたの命令である(ヨハネ15:16-17)。」と。

 

あなたがたが出かけて行って実を結び(ヨハネ15:16b参照)

  ちなみに、近年、教皇フランシスコは、出向いて行く教会になるようにと閉鎖集団からの解放を、次のように強調しておられます。

「『出向いて行く』教会とは、門の開かれた教会です。隅に追いやられている人のもとへと出向いて行くことは、やみくもに世界を駈けずり回ることではありません。足を止める、他者に目を注ぎ、耳を傾けるために心配事を脇に置く。道端(みちばた)に倒れたままにされた人に寄り添うために急用を断念する。・・・時にわたしたちは、帰って来た息子がすぐ入れるように門を開けたままにする、放蕩(ほうとう)息子の父のようであらねばなりません。

 教会は、常に開かれた父の家であるよう呼ばれています。開かれていることの具体的なしるしの一つは、どの教会でも門を開いたままにしておくことです。そうすれば、聖霊に促されて神を探し求める人が、冷たく閉ざされた門にぶつかることはないでしょう(『福音の喜び』46-47項)。」と。

 教会は、閉鎖的な内輪向きの仲良しグループになってはならないのです。

 なぜなら、教会は、福音を告げ知らせるために、ミサをささげる度(たび)ごとに、それぞれの家庭、学校、職場そして地域社会に派遣されるからです。

 つまり、キリストを中心に集められる共同体は、また、福音を伝えるために派遣される宣教共同体になるのです。

 

みことばに養われて出かけて行く

 さらに、教皇フランシスコは、それぞれの教会がまさに宣教共同体に成長できるための生涯養成が必要であることを、次のように強調しておられます。

「福音宣教全体は、神のことばに根ざし、それを聞き、黙想し、それを生き、祝い、あかしします。聖書は福音宣教の源泉です。したがってみことばを聴く養成を受ける必要があります。教会は自らを福音化しなければ、福音を宣教できません。神のことばを『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが絶対に必要です。・・・

 聖書の学びは、すべての信者に開かれていなければなりません。・・・福音化には、みことばに親しむことが必要です。また、教区や小教区、その他カトリックの諸団体には、聖書の学びに真剣に粘り強く取り組むこと、さらに個人や共同でのレクチオ・ディヴィナ(みことばの祈りによる分かち合い)を促すことが求められています(同上174-175)。」と。

 実は、このみことばによる信仰の家庭における生涯養成は、すでに旧約時代、モーセに導かれて40年間にわたって荒れ野の試練の旅の終わり、いよいよ約束の乳と蜜の流れる土地カナンに入植する直前に、モーセが最後の説教で次のように確認しています。

「これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。・・・

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きているときも、これを語り聞かせなさい(申命6:1-7)。」と。

 このように、みことば教育は、まず、家庭において親が子どもたちにみことばを語り聞かせることが、その原点にほかなりません。このみことば教育を実践することによってこそ、それぞれの家庭に家庭教会を育てて行けるのではないでしょうか。

 このミサの終わりに、司式司祭は、皆さんを、それぞれの家庭、学校、職場そして地域社会に、福音を伝えるために派遣します。しかも、この派遣を実践できる力は、聖霊から十分にいただけるという保証があります。

 

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230910.html