年間第22主日・A年(23.9.3)

「わたしのために命を失う者はそれを得る」

「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージ

   教皇フランシスコは、去る5月13日に、本日の「被造物を大切にする世界祈願日」教皇メッセージを発表なさいました。

 その要約は、今日(きょう)の「聖書と典礼」の7頁に掲載(けいさい)されていますが、教皇ご自身の肉声(にくせい)を、味わっていただくために、このメッセージのさわりの箇所を、そのままお伝えします。

「預言者アモスのことば、『正義を洪水のように、恵みのわざを大河のように、尽きることなく流れさせよ(アモス5:24)。』」から着想を得たものです。・・・人々の利己心にあおられた貪欲な消費主義が、地球の水循環を、狂わせています。化石燃料の無節操な消費と森林伐採は、温暖化と深刻な干ばつを引き起こしています。・・・

 わけてもキリスト教会として、わたしたちの共通の家(地球)を回復させ、そこに再びいのちが満ちあふれるよう、何ができるのでしょうか。決意をもってわたしたちは、自分の心を、ライフスタイルを、この社会を運営する公共政策を、変えていかなければなりません。

 まずは、わたしたちの心を変えることで、この大河に貢献しましょう。なんであれ変革を始めるなら、心を変えることは不可欠です。・・・

 次に、私達のライフスタイルを変えることで、この大河に貢献しましょう。・・・神の恵みの助けによって、廃棄物を減らし、不必要な消費を減らすライフスタイルを取り入れましょう。・・・」と。

 

自分自身をいけにえとして献げなさい(ローマ12:1参照)

  次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロがまだ一度も訪れたことないローマの教会に宛ててしたためた、まさにキリスト者の生き方の核心に触れる勧告にほかなりません。

 まず、冒頭で「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」と、念を押しています。

 続いて、短刀直入に、まず「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」と、命じます。

 ここで言われている「自分の体」ですが、「自分自身」と言い換えることもできます。

 さらに、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」とは、旧約時代には家畜や農作物(のうさくぶつ)がささげられていましたが、新約時代には、自分自身をいけにえとして捧げなさいというのです。

 さらに、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」と。

 ちなみに「この世」については、ヨハネがその手紙のなかで次のような極めて適切な勧告を、特に若者に向けて強調しています。

「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神のことばがあなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活の驕りは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神のみこころを行う人は永遠に生きつづけます(一ヨハネ2:14c-17)。」と。

 つづいて「心を新たにし自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と。

 これこそ、日々の回心ではないでしょうか。つまり自分中心の生き方から、神中心の生き方に根本的に切り替えることです。

 ちなみに、みこころを行うことの大切さについては、マタイが次のように説明してくれます。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの父の御心を行う者だけが入るのである(同上7:21)。」と。

 では、「神の御心」を、どのように知ることができるのでしょうか、

 新約時代にはイエス・キリストの人格とその業を通して、決定的に御心が啓示(けいじ)され、まさにイエスの行動の基調がそこに示されたので、御心が地にも行われますようにと祈ることができるのではないでしょうか。

 

自分を否定し自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい(マタイ16:24参照)

 最後に、今日の福音ですが、イエスに従いたい者の極めて厳しい生き方について語られています。

 場面は、イエスが初めて、弟子たちに、「ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」ところです。

 ここで、まず注目すべきは、ペトロの反応です。

「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている。』」と。

 この最後のくだりは、「あなたの考えは神のものでなく、人間的なものである。」と、訳すこともできます。

「それから、イエスは弟子たちに言われた。」となっていますが、マルコの並行箇所では、「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた(マルコ8:34)。」と、群衆をも含めています。

 とにかく、そこで極めて重大な宣言をなさいます。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」と。

 ここで言われている「自分を捨てる」ですが、「否定する」とも訳すことができるので、まさに日々、忠実にイエスに従うためには、まず自己主張を止め、自分を無にして従うことではなしでしょうか。

 とにかく、「命」は、イエスに従って自分を捨てることによって初めて得られるというのです。

 しかも、この「命」は、救いの完成の暁にイエス自身によって確かにされる「永遠の命」に他なりません。

 つまり、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」と。

 まさに、日々の生活のただ中で忠実に主に聞き従うというキリスト者の生き方を、派遣されるそれそれの家庭、学校、職場そして地域社会において共同体ぐるみで全うできるように共に祈りましょう。

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230903.html