年間第21主日-A年(23.8.27)

「私の教会を建てる」

 

ダビデの家の鍵を置く(イザヤ22:22参照)

  最初に今日の第一朗読ですが、第一イザヤが、紀元前8世紀にユダ王国のヒゼキヤ王に仕えていた書記官(しょきかん)シェブナに対する厳しい預言を、次のように伝えています。

「主は言われる。わたしは、お前をその地位から追う。

 お前はその職務から退けられる。

 その日には、わたしは、わが僕(しもべ)、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び、彼にお前の衣(ころも)を着せ、お前の飾り帯をしめさせ、お前に与えられていた支配権を彼の手に渡す。」と。

 恐らく宮廷で権力を、欲しいいままにしていた書記官シェブナは、なんと自分の名誉(めいよ)のために立派な墓を建てたというのです。

 ですから、その職務(しょくむ)から追放(ついほう)され代わりにエルヤキムが起用(きよう)されるというのです。

 預言は続きます。

「エルヤキムは、エルサレムの住民のユダの家の父となる。わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。・・・わたしは、彼を確かなところに打ち込み、かなめとする。彼は、父の家にとって栄光の座に着く。」と。

 なんと、一介(いっかい)の家令(かれい)にしては、大げさな表現が使われています。特に、「ダビデの家の鍵」という表現にふさわしい人物は、家令(かれい)ではなく王ではないでしょうか。

 とにかく、紀元前8世紀に不正な家令(かれい)シェブナを厳しく批判(ひはん)したイザヤの言葉が、紀元前7世紀には、ダビデ王朝の将来を預言する手掛かりとなり、その後(のち)、失望(しつぼう)を味わわされても消されることなく、語り継がれていきます。

 こうして、「ダビデの家の鍵」は、今日(きょう)の福音が語っているように、キリストの教会に受け継がれたと言えましょう。

 ちなみに、教会の原型(げんけい)と言える神に民は、旧約において次のように語り継がれています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面(おもて)にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他(た)のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他(た)のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手(おんて)をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである(申命記7:6-8)」と。

 

わたしはあなたに天の国の鍵を授ける(マタイ16:19参照)

  次に、今日の福音ですが、マタイが伝えるイエスが、イエスに対して「あなたはメシア、生ける神の子です。」と、見事(みごと)な信仰告白したペトロにいとも重大な次のような宣言をなさった場面にほかなりません。

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と。

 このように、神の呼び掛けに応える者を礎(いしずえ)として、「わたしの教会」が建てられます。まさに、教会とは、神が名指しで呼んだもの、すなわち「神の民の共同体」にほかなりません。

 ですから、同じペトロはその手紙の中で、次のように教会が建てられことを、荘厳(そうごん)に説明しています。

「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようになりなさい。そして、聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。・・・あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招きいれてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです(一ペトロ2:4-9)。」と。

 今、わたしたちは、10月にバチカンで開催されるシノドスのための、最終準備の段階に入りました。

 第二バチカン公会議後、このシノドスを定期的に開催することを、決めましたが、その準備段階からは、司教たちだけがそれに参加してきましたが、今回のシノドスからは、神の民の全員が、準備段階から参加するように、方法論を抜本的(ばっぽんてき)に切り替えたと言えましょう。

 しかも、今回のシノドスへの準備段階での合言葉は、シノダリティ(ともに歩む)に他なりません。

 これは、第二バチカン公会議で、教会の根本的刷新の聖書的イメージとなったのは、教会は神の民であるという教会像の再確認と言えましょう。

 つまり、第二バチカン公会議前までの、聖職者中心主義の教会を、神の民である教会として、その歩みを民全員参加の歩みに根本的に切り替えたのではないでしょうか。

 ですから、『教会憲章』の第二章で、次のように宣言しています。

「神は人々を個別的に、全く相互の連絡なしに聖化し救うのではなく、彼らを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することを望んだ。それで、神はイスラエル民族をご自分の民として選らんで、それと契約を結び、その民の歴史の中にご自身とご自分の意向とを表すことによって、またその民をご自分のものとして聖化することによって、民を徐々に教化なさった。・・・従って、肉によってではなく水と聖霊によって新たに生まれた者は、『選ばれた種族、王的祭司職、聖なる民、神に属する民であり・・・前には民でなかったが、今は神の民である(一ペトロ2:9-10)。』と。

 ちなみに、この神の民は、今日、全世界に広がっているカトリック教会として終末の救いの完成を目指しながら信仰の旅を続けていると言えましょう。

 しかも、この神の民は、それぞれの地域に根差している教会つまり信仰共同体にほかなりません。ですから、教会の刷新は、このそれぞれの共同体において実現されなければなりません。

 そこで、使徒パウロは、この共同体が成長していく原動力について次のように強調しています。

「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げていきます。ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。・・・愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭(かしら)であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々(ふしぶし)が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分(ぶん)に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられていくのです(エフェソ4:12-16)。」と。

 

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230827.html