年間第20主日-A年(23.8.20)

「あなたの信仰は立派だ」

 

主のもとに集まって来た異邦人が 主に仕え主の名を愛し(イザヤ56:6参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、第三イザヤが預言する救いが異邦人にまで広がって行くという希望に満ちたメッセージにほかなりません。

 ちなみに、この第三イザヤと呼ばれる預言者が活躍した時代背景ですが、半世紀におよぶ捕囚時代(587-538BC)を終え、ようやく故国(ここく)にもどることが出来た時代です。

 ですからまもなく待望のエルサレムの神殿を再建(さいけん)できるという希望に満ちた時なので、今日の箇所の異邦人(いほうじん)にまでも神の救いが広がって行くという次のような預言を伝えることができたのではないでしょうか。

「主のもとに集まって来た異邦人が

 主に仕え、主の名を愛し、その僕(しもべ)となり

 安息日を守り、・・・わたしの契約を固く守るなら・・・

 わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。」と。

 このように、第三イザヤは、主なる神の異邦人(いほうじん)に対する広い心を強調していますが、捕囚生活(強制移住)の間(あいだ)に、信仰が祭儀(さいぎ)との結びつきを弱め、いわゆる神殿祭儀(さいぎ)に代わって、安息日を守ることが求められ、さらに信仰への各自の決断が強調されています。

 ちなみに、この安息日の由来(ゆらい)ですが、二つの異なった説明があります。

 まず、第一は、神が六日目(むいかめ)の創造のあとに休まれたこと(創世2:2)、第二は、かつてイスラエル人がエジプトで奴隷(どれい)として酷使(こくし)されていたのですが、神の憐れみによって救い出されたので、安息日を守る(申命5:15)と言うのです。

 とにかく、この日には労働(ろうどう)を休み、礼拝のため聖なる日にしなければなりません(レビ23:3)。

 実は、この異邦人(いほうじん)にまで広げられる神の救いの計画の預言は、ようやく新約時代になって救い主イエスによって実現されたと言えましょう。

 

子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただく(マタイ15:27参照)

 ですから、今日の福音は、異邦人(いほうじん)の地方ティルスとシドンでの異邦人(いほうじん)の娘の癒しのエピソードが、次のようにいとも感動的(かんどうてき)に伝えられています。

「この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊(あくれい)にひどく苦しめられています』と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった。」と。

 ついに、弟子たちが、「この女を追い払ってください。」と、イエスに願います。

 この弟子たちの願いですが、イエスがこの女の願い通り、「奇跡を起こして欲しい」と、願っていると言えましょう。

 しかし、イエスはけんもほろろにこの弟子たちの願いをしりぞけます。

 なぜでしょうか。

 それは、イエスはまずイスラエルの失われた羊を導く羊飼いとして神から「遣わされた」と言うのです。

 そこで、イエスは神の救いの御計画に忠実に従う僕(しもべ)です。つまり、神は救いの力を具体的な出来事を通して現わすために、特定(とくてい)の時代と場所と民を必要とされると言うのです。

 とにかく、すべての人の救いを望む神によって選ばれたのは、弱く小さなイスラエルでした。

 まさに、力ある民ではなく、取るに足らない弱い民に救いが与えられて、彼らの上に神の栄光が輝くなら、やがて異邦人(いほうじん)の誰もが神の働きの偉大さを悟るに違いないというのです。

「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうか助けて下さい』と言った。イエスが、『子どもたちのパンを取って子犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』そこでイエスは、お答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」と。

 ここで言われている、「子どもたち」ですが、ユダヤ人を意味し、「子犬」は、異邦人を指す差別用語(さべつようご)といえましょう。

 つまり、この女の切なる願いこそ、神の全能の力を信じる真(まこと)の信仰ではないでしょうか。

 たしかに、マタイ福音書では、神の国の宣教は、イエスの十字架と復活までは、イスラエルに限定されていますが、昇天の直前に弟子たちに与えられた宣教命令は、次の通りです。

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能(けんのう)を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなた方(がた)に命じておいたことすべてを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(同上28:16-20)。』」と。

 ですから、教皇フランシスコは、この宣教命令は、すべてのキリスト者がイエスからいただいた召命であることを、『使徒的勧告(かんこく)福音の喜び』で、次にように強調なさっておられます。

「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へ出て行くようにという召命を受け入れました(創世記12:1-3)。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』(出エジプト3:10)という神の呼びかけを聞いて、民を約束の地に導きました(出エジプト3:17)。・・・今日(こんにち)、イエスが命じる『行きなさい』というおことばは、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に呼ばれています。すべてのキリスト者、またすべての共同体は、主の求めておられる道を識別しなければなりませんが、わたしたち皆が、その呼びかけに応えるよう呼ばれています。つまり、自分にとって快適な場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられているすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれているのです(同上20項)。」と。

 今日(きょう)、わたしたちの共同体が、ここに共に集い「共にミサをささげる」のは、このミサによって派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において福音を告げ知らせることが出来るためです。

 教皇フランシスコは、続けられます。

「弟子たちの共同体の喜びは、宣教の喜びです。喜びに満ちて派遣されたところから戻って来た七十二人の弟子たちは、それを体験しました(ルカ10:17)。・・・この喜びは、福音が告げ知らされ、実を結び始めていることのしるしです。・・・けれどもこの喜びには、離脱と自己犠牲、すなわち自分自身から出て行くという決心が常に必要です。(同上21項)。」と。

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230820.html