年間第19主日(A年・23.8.13)

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」

 

静かにささやく声が聞こえた(列王記上19:12b参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、列王記が語る預言者エリヤの主なる神の静かなささやきの声を聞いたという感動的場面であります。

 ちなみに、この列王記ですが、恐らくイスラエルの民(たみ)がバビロンに強制移住されていたいわゆる捕囚(ほしゅう)時代に、編集されたと考えられます。

 内容は、ダビデ王の生涯の最後の日々をもって始まる歴代(れきだい)の王たちの歴史書と言えましょう。

 しかも、今日の箇所は、北のイスラエル王国(おうこく)のアハブ王(874-853BC)の時代に活躍した預言者エリヤのホレブ山での感動的な神体験を次のように伝えています。

「見よ、そのとき、主の言葉があった。主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』といわれた。・・・しかし、風の中に主はおられなかった。風の後(のち)に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後(のち)に、静かにささやく声が聞こえた。」と。

 まず、このエリヤが体験した時代背景について確認してみましょう。

 それは、イスラエルの王アハブの治世(ちせい)であり、

「彼以前のだれよりも、主なる神の目に悪と思われることを行った。・・・彼はシドン人の王エドアルの娘イゼベルを娶(めと)、進んでバアルに仕え、礼拝した(同上16:30-32)。」と言うのです。

 ですから、預言者エリヤは、バアルの預言者四百人とカルメル山で対決し、決定的な勝利をおさめることができたのですが、なんと王妃(おうひ)イゼベルに命を狙われ逃亡の身となり、神の山ホレブに逃げ込んだのです。

 そこで、今日の場面が展開(てんかい)されます。

 では、主なる神の「静かにささやく声」は何を語られたのでしょうか。

 それは、「お前の来た道を戻り、ダマスコの荒れ野に向かえ、そこについたなら、ハザエルに油を注ぎ、アラムの王とせよ。・・・私はイスラエルに七千人を残す。彼らは皆、バアルに膝(ひざ)をかがめず、これに口づけしなかった者たちである(同上19:15-18)。」と。

 つまり、勇気をもって七千人の同志と共に、イスラエルが真(まこと)の信仰に立ち帰るようにその使命を全うせよとの励ましをいただいたのではないでしょうか。

 

神の子としての身分、約束は彼らのものです(ローマ9:4b参照)

  次に、第二朗読ですが、使徒パウロがローマの教会へ書き送った、ユダヤ人同胞(どうほう)に対する切なる思いにほかなりません。

 彼は、次のように強調します。

「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラルの民です。神の子としての身分、栄光、・・・約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られた(で)のです。」と。

 ここで言われている「肉による同胞」とは、ユダヤ人のことと言えましょう。また、「イスラエルの民」ですが、すでに申命記において、「神の民」として、次のように説明されています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面(おもて)にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他(た)のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他(た)のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手(みて)をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである(同上7:6-8)。」と。

 さらに「神の子」ですが、ヨハネの手紙において次のように宣言されています。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。・・・愛する者たち、わたしたちは、今(すで)に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです(一ヨハネ3:1-2)。」と。

 

本当にあなたは神の子です(マタイ14:33参照)

  最後に、今日の福音ですが、ガリラヤ湖で夜明けに、逆風(ぎゃくふう)の中、湖上(こじょう)で何とイエスにお会いできたといういとも感動的な出来事を伝えています。

 そのときの有様(ありさま)を、マタイは次のように描いています。

「逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれた。弟子たちは、イエスが湖上(こじょう)を歩いておられるのを見て、『幽霊(ゆうれい)だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。」と言うのです。

 ですから、恐怖の最中(さなか)、ひたすら主のみことばを、全面的に信じて主から目をそらせないで必死に行動したので、出来ないことまでもやってのけたと言うのです。

 ところが、イエスから目を離し、強い風に気を取られたとたん、ずぶずぶと湖(みずうみ)に沈みかけたのです。

 その瞬間(しゅんかん)、ペトロは、我(われ)に返って、とっさに叫びました。

「主よ、助けてください」と。

 そこで、「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」と。

 実は、マタイは、イエスが、弟子たちに「『あなたたちはわたしをだれだと言うのか』と仰せられた。すると、シモン・ペトロが、『あなたは生ける神の子、メシアです。』と言った。これに答えて、イエスはペトロに仰せられた、『バルヨナ・シモン、あなたは幸いである。あなたにこのことを示したのは人間の知恵ではなく、天にいますわたしの父である(同上16:1517)。』」と。

 わたしたちも、イエスに対して「あなたは神の子です。」と信仰告白ができるのは、天の御父が示してくださったからにほかなりません。そして、日々の生活のただ中で、決してイエスから目を離さないで、何時も、忠実にイエスに聞き従う真(まこと)の信仰の生き方を全(まっと)うできるように共に祈りましょう。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230813.html