「これはわたしの愛する子これに聞け」
「人の子」のような者が天の雲に乗り(ダニエル7:13参照)
今日の第一朗読は、知恵文学に属するダニエル書が、預言する救いの完成の暁(あかつき)に遣わされる「人の子」が登場する場面であります。
ちなみに、このダニエル書ですが、紀元前165年頃、バビロニア帝国の王アンティオコス4世によるイスラエルに対する迫害の最中(さなか)、同胞に宛てて書いた作者ですが、主人公のダニエルを、紀元前6世紀のバビロンでの捕囚民の一人で、賢明なイスラエル人の若者として描いています。
ですから、このダニエルが、神の霊に満たされて未来に関する夢とヴィジョン(幻(まぼろし))を見たことを、次のようにいとも幻想的に描いています。
「ダニエルが見ていると、
王座が据えられ、『日の老いたる者』がそこに座していた。
その衣は雪のように白く
その白髪(はくはつ)は清らかな羊の毛のようであった。
その王座は燃える炎、その車輪は燃える火
その前から火の川が流れ出ていた。
幾千人が御前(みまえ)に仕え、幾万人が御前(みまえ)に立った。
裁き主(ぬし)は席に着き、巻物が繰り広げられた。」と。
ここで言われている「日の老いたる者」ですが、神の永遠性を思わせる表現といえましょう。また、「白」ですが、神の聖性(せいせい)を表す色に他なりません。
さらに、「炎(ほのお)、火」は、「裁き」と清さをもたらす神の力の象徴(しょうちょう)といえましょう。
そして、「巻物」とは、変更されることのない神の意思の象徴的表現と言えましょう。
さらにヴィジョン(幻(まぼろし))は、続きます。
「夜の幻(まぼろし)を見ていると、
「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り
『老いたる者』の前に来て、そのもとに進み
権威(けんい)、威光(いこう)、王権(おうけん)を受けた。」
ここで言われている「人の子」ですが、神の国のイメージに密接(みっせつ)につながります。
ですから、ダニエル書の文脈(ぶんみゃく)では、神の聖なる民を示す象徴(しょうちょう)といえましょう。
けれども、後代(こうだい)の黙示(もくし)文学や新約聖書においては、メシア自身を示すようになったのです。
したがって、イエス御自身は、この表現を「メシア」の意味で、また、おおくの場合、ご自分のことを指しておられます。
たとえば、マルコ福音書では、次のように言われています。
「人の子もまた、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るときに、その者を恥じる(同上8:38)。」と。
キリストの力に満ちた来臨(らいりん)を知らせる(二ペトロ1:16参照)
次に、今日の第二朗読ですが、使徒ペトロがしたためたとされる手紙二の1章が伝えるキリストの来臨(らいりん)の場面にほかなりません。
ちなみに、この書簡は、使徒ペトロが書いたとされていますが、実際に書いたのは、ペトロ自身ではなく、彼の弟子、あるいは彼の教えを受けついだ後代(こうだい)のだれかであると考えられます。
従って、このペトロの手紙第二は、著者によれば、ペトロが死を前にして、信者たちに、キリスト者になるという召命のすばらしさを思い起こさせる言葉を残し、さらに、将来の危険に対する警告を与えるためにしたためたとしています。
ですから、次のように書き送っています。
「わたしは、キリストの威光(いこう)を目撃したのです。荘厳(そうごん)な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』という声があって、主イエスの父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスがいたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。」と。
そして忠告します。
「こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星(みょうじょう)があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」と。
ちなみに、人の子の来臨に対する心構えについては、マタイが次のように荘厳に描いています。
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えている時に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25:31-40)。』」と。
起きなさい。恐れることはない(マタイ17:7参照)。
最後に、今日の福音ですが、マタイが伝える主のご変容(へんよう)のいとも荘厳(そうごん)な場面を次のように描いています。
「そのとき、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけをつれて、高い山に登られた。」と。
ここで言われている「高い山」ですが、タボル山(ざん)であると伝えられています。
また、イエスに同行した三人の弟子たちですが、イエスのゲッセマニの園での死ぬほどまでの苦難を目撃する同一人物たちです。
続いて、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリアが現れ、イエスと語り合っていた。」と。
ちなみに、ルカの並行箇所では、「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期(さいご)について話していた(同上9:31)。」となっています。
次に、「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋(かりごや)を三つ建てましょう。…』ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」と。
わたしたちも、生涯かけて信仰を全うするために、まさに日々主に忠実に聴き従うことが出来るように、共に祈りましょう。