「あなたの信仰があなたを救った」
主よ、あなたの民をお救いください、イスラエルの残りの者を(エレミヤ31:7d参照)
まず初めに今日の第一朗読ですが、エレミヤ書31章からの抜粋であり、北イスラエルの回復の預言にほかなりません。
ちなみに、このエレミヤ書ですが、ユダ王国で、預言者エレミヤ(627-585BC)は、ユダ王ヨシアの治世(ちせい)の13年から、ユダ王国最後の王ゼデキアの治世(ちせい)の11年に、エルサレムの住民がバビロンに強制移住させられるまで、活躍した預言者にほかなりません。
彼は、若くして預言者の召命を受け、「諸国民の預言者(同上1:2-3s参照)」、より正確には「諸国民に対する預言者」とされ、特に北イスラエルに対して、回心と「北からの災い」を呼びかけたのではないでしょうか。
しかも、今日の個所は、捕囚(強制移住)からの解放を預言していると言えましょう。
「主はこう言われる。
ヤコブのために喜び祝え。
諸国民の頭(かしら)のために叫びをあげよ。
心を響かせ、賛美せよ。そして言え。
『主よ、あなたの民をお救いください
イスラエルの残りの者を。』」
まず、冒頭(ぼうとう)で言われている「ヤコブ」ですが、アブラハムの孫の名前で、ここでは、北イスラエルと南ユダを含む全イスラエルを表しています。
また、「イスラエルの残り者」の「イスラエル」は、北イスラエルを指しています。
さらに「残りの者」とは、ここでは、軍事大国アッシリアに滅ぼされた北王国の人々も、アッシリアに強制移住させられたのですが、この「残りの者」たちが再建される民の核となるという希望のあかしに他なりません。しかも、この「残りの者」という表現は、イスラエルの歴史の文脈においてそれぞれの仕方で、国の再建の核になるグループを指すシンボルになったのであります。
そして、今日の希望の預言は、さらに続きます。
『見よ、わたしは彼らを北の国から連れ戻し
地の果てから集める。
その中には目の見えない人も、歩けない人も
身ごもっている女も、臨月の女もいる。
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。
彼らは泣きながら帰って来る。
わたしは彼らを慰めながら導き
流れに沿って行かせる。
彼らはまっすぐな道を行き、つまずくことはない。
わたしはイスラエルの父となり
エフラエムはわたしの長子となる。」
ここで言われている「エフライム」とは、ヨセフの息子の名前で、イスラエルの十二部族に属する名前でもあります。しかも、北王国の中心的部族となったので、北王国の別名とも言えましょう。ちなみに、ここではイスラエルと同じ意味にほかなりません。
とにかく、神は選ばれた民を、再び故国へ連れもどすときには、特に人様の助けを必要としている弱き人たちを、優先的に導かれるというのです。
ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで下さい(マルコ10:47参照)
次に、今日の福音ですが、マルコが伝えるバルティマイという盲人が、癒されるまさに感動的な場面にほかなりません。
それでは、詳しくそのときの状況を見てみましょう。
まず、奇跡を行われた具体的な舞台ですが、「イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき」と、イエスを取り巻く弟子と群衆が、世界最古の町エリコという町を出ていこうとされた場所であります。ちなみに、このエリコですが、すでに旧約時代から登場するまさに由緒ある町です。
しかも、エルサレムへ向かうイエスの最後の旅の途中にほかなりません。
ちなみに、この町は、ヨルダン川下流、エルサレムまで20キロ程の距離にあるので、イエスの旅の終わりに差し掛かった時といえましょう。
そこで、なんと「ティマイの子、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで『ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい』と言い始めた。」というのです。ちなみに、当時のユダヤ人たちは、自分たちの先祖がエジプトの奴隷に家から脱出できたことを祝う過越祭のために毎年春に、エルサレムに巡礼に来るのが習慣でした。
ですから、このバルティマイという盲人は、都へ向かう通り過ぎる巡礼者たちの施(ほどこ)しを願うために「道端に座っていた」というのです。
ところが、ナザレのイエスが、そばを通りかかっていると聞かされて、まさに自分の信仰を奮い立たせて叫びます。
「ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい」と。
この人物こそ、マルコ福音書の中で、イエスを名指しで呼んで、いやしていただいた唯一の人物にほかなりません。
しかも、この福音書で、「ダビデの子」と言う称号がイエスに宛てられたのも、これが最初と言えましょう。この称号こそ、イエスがメシアであることを示しています。
ですから、今日(きょう)の第一朗読で確認したように、「目の見えない人、歩けない人」つまり、障碍者を優先的に救ってくださるのがメシアの使命であることを暗示しているのではないでしょうか。
ところが、「多くの人々が𠮟りつけ黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい』と叫び続けた。」というのです。
ですから、「イエスは立ち止まって、『あの男を呼んで来なさい』と言われた。人々は盲人を呼んで言った。『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は、『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」
ここで言われている「あなたの信仰があなたを救った。」ですが、「人間たちのもとではできない。しかし、神のもとではそうではない。神のもとでは何でもできるからだ。」とも訳せる意味にほかなりません。
つまり、わたしたちの信仰こそが、神のみがおできになることを引き出す力があると言えましょう。すなわち、彼の信仰こそが、イエスを通して「不可能なこと」を実現する神の力に絶対的に信頼することと言えましょう。
さらに、今日の場面のしめくくりとして「なお道を進まれるイエスに従った」と、確認していますが、「弟子として生きる道を歩むこと」を意味しています。
ですから、初代教会において「キリスト者」と呼ばれる前は、使徒言行禄(9:2;18:25;24:22)では、誕生したばかりのキリスト教が、”道”と言う名で呼ばれていました。