王であるキリスト・B年 (24.11.24)【世界青年の日】

「わたしの国は、この世には属していない」

見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り「日の老いた者」の前に来て(ダニエル7:13参照)

  まず、初めに今日の第一朗読ですが、ダニエル書7章からの抜粋であります。

 ちなみにこのダニエル書ですが、紀元前6世紀のバビロン捕囚(強制移住)の一人で、バビロニア帝国の宮廷で仕えた賢明なユダヤ人の若者として描かれています。

 彼は、未来に関するヴィジョン(幻)を解き明かし、迫害の最中にも神はその民を心にかけておられること、また、将来イスラエルの民は解放されることを預言しています。しかも、今日の個所は、「人の子」についてのヴィジョンと言えましょう。

 じつは、今日の個所の前に、次のような四頭の獣 (けもの)のヴィジョンを見せられています。

「バビロンの王、ベルシャツァルの治世元年(ちせいがんねん)、ダニエルは夢を見た。床についていると彼の脳裏(のうり)を横切ったヴィジョンに悩まされた。彼はその夢を書き記し、・・・ダニエルはこう言った。・・・その時、おのおの異なった四頭の巨大な獣(けもの)が、大海から現れ出た。第一の獣(けもの)は獅子のようであったが、鷲(わし)の翼を持っていた。・・・次に,見よ、第二の獣(けもの)が現れた。それは熊のようで、後ろ足で立ち、口の牙(きば)に三本の肋骨(ろっこつ)をくわえていた。・・・さらに見ていると、もう一頭の獣(けもの)が現れた。それは豹(ひょう)のようで、その背には鳥のような翼が生えていた。・・・続いて、わたしがその夜見たヴィジョンの中に、見よ、第四の獣(けもの)が現れた。・・・」

 このヴィジョンこそ、異教徒の王国の歴代の王たちについてと言えましょう。

 つづて、今日の個所に入ります。

「夜の幻(ヴィジョン)をなお見ていると、

 見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り

 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み

 権威、威光(いこう)、王権を受けた。

 諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え

 彼の支配はとこしえに続き

 その統治(とうち)は滅びることがない。」

 まず、ここで言われている「人の子」ですが、「神の国」の概念に密接につながるもので、文脈からみて、四頭の獣に象徴されている四つの異教の王国に対比する、神の聖なる民を示す象徴といえましょう。

 けれども、後(のち)の代の黙示文学や新約聖書においては「人の子」という表現は個人、すなわち、メシアを指すようになったと言えましょう。

 ですから、特に福音書では、イエスが好んでご自分の称号としてお使いになっておられます。

 ここで言われている「権威、威光、王権」ですが、ヨハネの黙示録(5:13)では、つぎのように言われています。

「また、わたしは、天と地の下と海にいるすべての被造物、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。『玉座の座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。』」   

 

わたしはアルファであり、オメガである(黙示録1:8b参照)

 つぎに、今日の第二朗読ですが、ヨハネの黙示録一章からの抜粋で、この書の序文と挨拶の個所といえましょう。ですから、次のように始まっています。

「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また、玉座(ぎょくざ)の前におられる七つの霊から、さらに」

 まず、ここで、この書物について説明します。このヨハネの黙示録は、一世紀末ごろから書かれ、当時のユダヤ黙示文学の象徴や文体を用いていると同時に、旧約聖書の預言書と密接に結ばれているといえましょう。

 そこで、今日の個所に、次のように続きます。

「証人[であり、]誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。

 わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」

 このように、始めの挨拶になっています。そして、ヴィジョンが、次のように告げられます。

「見よ、その方が雲に乗って来られる。

 すべての人の目が彼を仰ぎ見る、

 ことに、彼を突き刺した者どもは。

 地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。

 然り、アーメン。」

 このように、イエスが王として、また、メシアとして栄光に包まれて再臨(さいりん)することを、宣言しています。なお、この個所は、初代教会の神学に重大な影響を与えたといえましょう。つづいて、締めくくりの宣言が、つぎのように述べられます。

「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる『わたしはアルファであり、オメガである。』」

 ここで言われている「アルファとオメガ」はギリシャ文字のアルファベットの最初と最後であり、両極であるので、全体あるいは完全を意味します。ですから、神は全被造物ばかりでなく、歴史をも支配し統治することを強調しています。

 

 最後に、今日の福音ですが、ヨハネが伝える、イエスがピラトによる裁判の席上、尋問(じんもん)される場面にほかなりません。

「そのとき、ピラトはイエスに『お前がユダヤ人の王なのか。』と言った。イエスはお答えになった。『あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。』ピラトは言い返した。『わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。』イエスはお答えになった。『わたしの国は、この世には属していない。・・・』そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』というと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとはあなたが言っていることです。わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。』」

 まさに、神の真理は、イエスによって、この世に知らされました。ですから、真理に属し、上なる神の領域に属する者は、皆イエスの《声を聞く》ことができると言うのです。つまり、この意味においてこそ、イエスは、王なのです。

 けれども、ピラトは、イエスが言われたことを全く理解できませんでした。ですから、「真理とは何か(同上18:38)」という捨てぜりふを残して、尋問(じんもん)の場を去っていくのです。

 では、神の国に属するわたしたちは、一体、日々イエスの声を、しっかりと聴いているのでしょうか。例えば、毎日、福音書を紐(ひも)どいて、真剣にイエスのおことば聴き、それを実行しているのでしょうか。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2024/st241124.html