「わたしたちは何もかも捨てて あなたに従ってまいりました」
知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた(知恵 7:12参照)
まず、初めに今日の第一朗読ですが、知恵文学の代表作「知恵の書」7章からの抜粋で、知恵のすばらしさを説明している個所に他なりません。
ちなみに、この「知恵の書」ですが、紀元前1世紀に、アレキサンドリアに住んでいたユダヤ人によって、同胞を慰め、勇気、そして将来と来世に対する希望を与えるために、編集したと考えられます。
当時、ギリシャ文化すなわち唯物主義的異教文化の影響にさらされていたユダヤ人に対して、特に偶像崇拝について明確な忠告が必要だったと言えましょう。
ところで、この「知恵の書」ですが、旧約聖書の教訓書のうちで最も優れているので、「知恵の書」というタイトルに値(あたい)するのではないでしょうか。しかも、新約聖書の教訓ともよく調和しているので、聖アウグスチヌスによって、「キリスト教的知恵の書」と呼ばれています。
実は、今日の個所は、ソロモン王自身が知恵の起源、性質、働きをのべている個所にほかなりません。ですから、次のように語られています。
「わたしは祈った。すると悟りが与えられ、願うと、知恵の霊が訪れた。
わたしは知恵を王笏(おうしゃく)や王座よりも尊び、
知恵に比べれば、富も無に等しいと思った。
どんな宝石も知恵にまさるとは思わなかった。
知恵の前では金は砂粒(すなつぶ)にすぎず、
知恵と比べれば銀も泥に等しい。」
まず、このくだりで、ソロモン王がどのようにして知恵を授かったか、また、その知恵が、どんなにすばらしい賜物(たまもの)であるかを、強調していると言えましょう。
また、「知恵と比べれば銀も泥に等しい」ですが、このようなたとえは教訓書によく見られます。例えば、ヨブ記に次のくだりがあります。
「知恵は純金によっても買えず
銀幾らと値(あたい)を定めることもできない。
オフィルの金も美しい縞メノウも
サファイアも、これに並ぶことはできない。
さんごや水晶も言うに及ばず
真珠よりも知恵は得がたい(ヨブ記28:15-18)。」
続いて、次のように知恵を選んだ動機を確認します。
「わたしは健康や容姿の美しさ以上に知恵を愛し、光よりも知恵を選んだ。
知恵の輝きは消えることがないからだ。
知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。
知恵の手の中には量りしれない富がある。」
行って持っている物を売り払い、貧しい人に施(ほどこ)しなさい(マルコ10:21c参照)
次に今日の福音ですが、マルコが伝える永遠の命を得るためには、何をすればよいのかという問いに、イエスがお答えになられた場面と、それの続く、弟子たちの「何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」という申し出に対してイエスがお答えになる場面にほかなりません。
まず、最初の個所ですが、「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』イエスは言われた。『なぜ、わたしを《善い》というのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。《殺すな、姦淫(かんいん)するな、盗むな、偽証(ぎしょう)するな、奪い取るな、父母を敬え》と言う掟をあなたは知っているはずだ。』すると彼は、『先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施(ほどこ)しなさい。そうすれば、天に富を積むことなる。それから、わたしに従いなさい。』その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」
この冒頭で言われている「旅」ですが、エルサレムが目的地であるイエスのこの世における最後の旅に他なりません。
ちなみに、イエスの許(もと)へ走り寄って、「ひざまずいて尋ねた」人物ですが、ひざまずくということは、心からの願いと、深い敬意を表す一つの所作(しょさ)にほかなりません。
ですから、敬称(けいしょう)とともにイエスに次のように語りかけます。
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」と。
この人物の問いは、結局、自分の人生の本当の意味は何なのか、つまり、私の生きる究極目的は何なのか。しかも、それにどのようにして到達できるのかという問いであって、誰の心にもある、それでいて答えがたやすく得られない究極的な問いと言えましょう。あるいは、別の方法で問いかけるなら、「どのようにして、私は神の国に入ることができるのか(10:15参照)」という根源的な問いかけと言えましょう。
ところが、イエスの最初の応答は、「なぜ、わたしを『善い』というのか。神お一人のほかに、善い者はだれもいない」という反論(はんろん)でした。
それは、質問者が、自分の問いかけについてもっと深く考えるようにとの招きではないでしょうか。
そこで、まるでその男の質問を確かめるかのように、彼の知っている答えの一部を並べ立てます。
「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」と。
ですから、彼は「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました。」と、素直に答えます。
ところが、「イエスは彼を見つめ、慈しんで(原語では、彼を愛して)言われた。
「あなたには欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
ところが、「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」
そこで、「イエスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。』弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。『子たちよ、神の国にはいるのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針に穴を通る方がまだ易しい。』・・・ペトロが、イエスの、『このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました』といいだした。イエスは言われた。『はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。』」
このように、約束は、「後の世」においてだけでなく、すでに「この世」においてさえも、多くの実を結ぶようになるというのです。イエスは、断言なさいました。
「わたしの母、わたしの兄弟とは、神のことばを聞いて行う人たちのことである(ルカ8:21)。」と。
ですから、日々、イエスのおことばを聞いてそれを実行することによって、すでにこの世においてイエスの家族と共に、神の国の豊かな恵にみたされるのではないでしょうか。