年間第17主日・A年(23.7.30)

「高価な真珠を一つ見つけると」

今あなたたちに知恵に満ちた賢明(けんめい)な心を与える(列王記上3;12参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、列王記上3章が語る夢の中で神からいただいた有難いお言葉を、いとも感動的に伝えています。

 ちなみに、この列王記ですが、イスラエルの歴史つまり、ソロモン王の治世(ちせい)から、彼の死後、王国が北と南に分裂(ぶんれつ)し、北王国がアッシリアの捕囚(ほしゅう)となり、南ユダ王国がバビロンに流謫(るたく)されるまでと、さらに400年にわたる南北両国の盛衰記(せいすいき)にほかなりません。

 ところで、ソロモン王の時代からユダヤ教が成立するまでの間に、なんとイスラエルの民に長い悲劇の時代が訪れます。それは、イスラエルが次第に神を忘れてしまったので、神の方(ほう)もまたイスラエルを見捨てたかに見えたことです。

 けれども、イスラエルが、現世的には特に政治面で大きな挫折(ざせつ)を体験したことが、かえって神の民としての使命に改めて自覚するための教訓になったといえましょう。

 とにかく、今日の場面は、ソロモン王がギブオンでなんと一千頭の焼き尽くす捧げ物を捧げたときのことです。

「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕(ゆめまくら)に立ち、『何事(なにごと)でも願うがよい。あなたに与えよう。』と言われた。」と。

 そこで、ソロモン王は、信頼をこめて神に願います。

「僕(しもべ)はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することが出来るように、この僕(しもべ)に聞き分ける心をお与えください。・・・」と。

 ちなみに、ここで言われている「善悪を判断すること」を、「善悪を識別(しきべつ)できるように」とも訳せます。

 また「聞き分ける心」とは、聞いてその是非を判断することと言えましょう。

とにかく、ソロモンの切なる願いに対して神は、優しくお答えになられます。

「見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。」と。

 ここでいわれている「知恵」ですが、特に5章で、次のように説明されています。

「神はソロモンに、非常に豊かな知恵と洞察力、海辺の砂浜のように広い心をお与えになった。ソロモンは、東方のすべての人々にもすべてのエジプト人にも知恵において勝っていた(同上5:9-10)。」と。

 また、知恵の書では、知恵について次のようなくだりがあります。

「知恵の動きはいっさいの動きにまさり、その清さのゆえに、すべてのものにしみとおり行きわたる。知恵は神の力のいぶき、全能者の栄光から流れでる清いものである。・・・知恵は永遠の光の照り映えであり、神の働きを映すくもりのない鏡であり、全善のかたどりである(同上7:24-26)。」と。

 

聖霊は万物が益となるように共に働く(ローマ8:28参照)

  次に、第二朗読ですが、使徒パウロがまだ一度も訪れたことのないローマの教会に宛てて、聖霊の素晴らしい働きについてまさに核心にふれる教えを手紙に次のようにしたためています。

「皆さん、神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万物が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と。

 実は、この8章の前半では、使徒パウロは聖霊による神の子らについて、次のように説明しています。

「兄弟の皆さん、わたしたちには負い目がありますが、それは、『肉』に生きるようにと、『肉』に対してではありません。『肉』に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、聖霊によって、からだの悪い行いを絶つなら生きます。神の霊によって導かれる人はだれでもみな、神の子なのです。あなたがたは、人を再び恐れに陥らせ、奴隷とする霊を受けたのではなく、神の子とする霊を受けたのです(同上8:12-15a)。」と。

 つまり、わたしたちの内に宿っておられる聖霊によって生かされ、神と結び付けられているので、聖霊こそがわたしたちのいのちであるといえましょう。

 ですから、ここで言われている「負い目」ですが、聖霊に対する負い目ではないでしょうか。つまり、わたしたちは常に聖霊の導きに従って生きなければならないのです。

 また、ここで言われている「肉」ですが、罪に支配されている「肉」である人間と言う意味に解釈できます。したがって、罪に支配されている「肉」である人間の状態から、聖霊を源(みなもと)とする新しいのちに「過越(すぎこす)」ことがキリスト者の生き方といえましょう。

 さらに、聖霊こそが、「万物が益となるように共に働いてくださる」というのです。つまり、例えば失敗や過ちすらも、すべてが、プラスになるように聖霊が働いてくださるのです。

 

宝を見つけた人は持ち物をすっかり売り払ってその畑を買う(マタイ13:44参照)

 つぎに、今日の福音ですが、マタイが伝える神の国のたとえの箇所であります。

 そこで、まず初めにマタイ福音書において、イエスがなぜ譬(たと)えを用いられるかのその根本的な理由ですが、次のように説明されています。

「あなたたちには天の国の秘義を悟る恵みが与えられているが、あの人たちには与えられていない(同上13:11)。」と。

 ですから、今日の箇所では、天(神)の国についてまず次のような譬(たと)えを語られます。

「畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」と。

 44節から始まる三つのたとえは、群衆(ぐんしゅう)よりもむしろ弟子たちに語られたと言えましょう。

「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」

 これら二つのたとえは、対をなすものと考えられていますが、実は、それぞれ別個のもので、最初のたとえで、神の国はすでに始まっていますが、一般にはまだ知られていない宝にたとえられています。だから、持ち物をことごとく売れば、この世ですでに神の国に入ることができると言うのです。

 また、真珠のたとえは、神のこの世における統治(とうち)のしかたについてと言えましょう。

 ですから、この商人は御父であり、持ち物をすっかりつまり、愛する御子までもお与えになったのです。

 ですから、わたしたちは、日々、「み国がきますように」と、救いの完成を待ち望んで祈り続けるのです。

 

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230730.html