年間第16主日・A年(23.7.23)

「耳のある者は聞きなさい」

 

こうして御民(みたみ)に希望を抱かせ 罪からの回心をお与えになった(知恵12:19b参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、知恵文学の代表作ともいえる知恵の書の神の忍耐こそが回心を促すことを雄弁に語っている箇所であります。

 ちなみに知恵ですが、次の様に説明されています。

「知恵は悪を行う魂には入らず、

 罪のとりこになっている体には住み着かない。

 人を教え導く霊は、偽りを避け、

 愚かな考えから遠ざかり、

 不正に出会えばそれを嫌う。

 知恵は人間を慈しむ霊である(同上1:-6a)。」と。

 ちなみに、今日の朗読箇所では、神の知恵が、忍耐をもって人間の回心を促すことを、次のように強調しています。

「すべてに心を配る神はあなた以外におられない。

 ・・・

 あなたの力は正義の源(みなもと)

 あなたは万物を支配することによって、すべてをいとおしむ方(かた)となられる。

 ・・・

 力を駆使(くし)されるあなたは、寛容(かんよう)をもって裁き、

 大いなる慈悲(じひ)をもってわたしたちを治められる。

 ・・・

 神に従う人は人間への愛を持つべきことを、

 あなたはこれらの業(わざ)を通して御民(みたみ)に教えられた。

 こうして御民(みたみ)に希望を抱かせ、罪からの回心(かいしん)をお与えになった。」と。

 最後に言われている回心(かいしん)ですが、ギリシャ語ではmetanoiaとなり、自分中心の生き方から、神中心の生き方に根本的に切り替えることを意味します。

 ちなみに、この書の11章では、神の愛は忍耐によって人を回心(かいしん)させようと願っておられることを、次のように強調しています。

「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、

 回心(かいしん)させようと、人々の罪を見過ごされる。

 あなたは存在するものすべてを愛し、

 お造りになったものを何一つ嫌われない。

 憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。

 あなたがお望みにならないのに存続し、

 あなたが呼び出されないのに存在するものが

   果たしてあるだろうか。

 命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

   あなたはすべてをいとおしまれる(同上11:23-26)」と。

 

正しい人々は父の国で太陽のように輝く(マタイ13:43a参照)

  次に、今日の福音ですが、マタイ福音書が語る五つの教訓集の三番目の教訓集に当たる箇所で、まさにイエスの教えの核心に触れる内容といえましょう。

 しかも、文体は、いつものように、たとえで語られています。

 今日のテーマは毒麦のたとえ話で、まさにこの世における神の支配つまり神の国の歴史が、次のように説明されています。

「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間(あいだ)に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕(しもべ)たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業(しわざ)だ』と言った。」と。

 このたとえ話自体は、この世における神の支配(統治)の歴史、すなわち多くの妨げに遭遇(そうぐう)するが、最後には大成功をおさめることを語って、焦点(しょうてん)を次のように終末的な収穫に合わせていると言えましょう。

「そこで、僕(しもべ)たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』というと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方(ほう)は集めて倉(くら)に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう。』」と。

 続いて、「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。『天の国はからし種(だね)に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種(たね)よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空(そら)の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。』と。

 このたとえは、次のパン種のたとえ話(ばなし)と対(つい)をなすもので、神の支配は初め目立たないけれども、救いの完成の暁(あかつき)には、全世界に及び、すべての階層(かいそう)に浸透(しんとう)することを、主張しているといえましょう。

 次にパン種(だね)のたとえを語られます。

「天の国はパン種(だね)に似ている。女がこれを取って三サトンの粉(こな)に混ぜると、やがて全体が膨れる。」と。

 続いて、イエスがなぜ、たとえを用いて群衆に語られたかを、預言者のことばを引用して、説明なさいます。

「わたしは口を開いて、たとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」と。

 この句は、詩編78:2の引用ですが、イエスがたとえを用いて語られたのは、世の初めから隠されているキリストによる救いの奥義(おくぎ)を、悟ることができるようになるからではないでしょうか。

 次に、イエスは、弟子たちにだけに毒麦のたとえを次のように説明なさいます。

「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国(みくに)の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。・・・彼らはそこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々は父の国で太陽にように輝く。耳のある者は聞きなさい。」と。

 ちなみに、マタイは最後の審判を次のようにいとも荘厳に描いています。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊をわけるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えているときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、旅をしているときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞ったからだ。』すると、正しい人たちはが、王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」と。

 このミサで派遣されるそれぞれの場で、愛の実践に励むことができるように共に祈りましょう。

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230723.html