年間第15主日・A年(23.7.16)

「わたしの言葉はわたしの望むことを成し遂げる」

 

わたしの口から出るわたしの言葉は 空しくはわたしのもとに戻らない(イザヤ55:11参照)

    初めに、今日の第一朗読ですが、便宜上(べんぎじょう)第二イザヤと呼ばれる章の結論になるイザヤ書55章が伝える、神のみことばの偉大な力を預言しています。

 ですから、この55章の冒頭(ぼうとう)では、次のような力強い呼び掛けで始まっています。

「さあ、渇いている者はだれでも、

 水のある所に来るがよい。

 ・・・

 なぜ、お前たちは糧(かて)でないもののために金を払い、

 腹を満たさないもののために労苦するのか。

 わたしに聞き従い、良い物を食べよ。

 美味(びみ)な食べ物に、お前たちの魂は喜ぶだろう。

 耳を傾け、わたしのもとに来るがよい。

 聞け、おまえたちの魂は生きる(同上55:3)。」と。

 ちなみに、この第二イザヤが編集(へんしゅう)された時代背景ですが、紀元前550年から530年頃、すなわち東方におけるキュロス王の台頭(たいとう)から、紀元前538年の捕囚の終わりまでの預言と言えましょう。

 ですから、キュロス王が、捕囚民をバビロンから解放してくれたので、まさに半世紀ぶりに故国に帰ることができるという希望と慰めの預言にほかなりません。

 冒頭でいわれている「水」ですが、乾燥(かんそう)したイスラエルでは、極めて貴重(きちょう)ですが、ここでは、神の教え、神のみことばの象徴(しょうちょう)として説明されていると言えましょう。

 このように、捕囚民に対して神のみことばにひたすら忠実に聞き従うことこそが、魂の捕囚からの解放の原動力となることを強調しているのではないでしょか。

 次に、今日の箇所で、神のみことばが、語られたことを必ず実現するという偉大な力を次のように強調しています。

 「わたしの口から出るわたしの言葉も

    むなしくは、わたしのもとに戻らない。

  それはわたしの望むことを成し遂げ

  わたしが与えた使命を必ず果たす。」と。

 ちなみに、イスラエルの民は、荒れ野での試練の旅の最中(さなか)にも神のみことばによって養われたことをすでに体験したというのです。

 そこで、モーセは、民に向かって次のような最後の説教を力説しました。

「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。

・・・人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口からでるすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった(申命記8:3b)。」と。

 

御言葉(みことば)を聞いて悟る人であり 百倍の実を結ぶ(マタイ13:23参照)

  次に、今日の福音ですが、マタイの文脈(ぶんみゃく)では、山上(さんじょう)の説教で始まる三つの教訓集の最後の教訓に当たる箇所であります。

 しかも、この最後の教訓集こそマタイ福音全体の核心といえましょう。

 今日の箇所の13章は種まきのたとえで、次のように始まります。

「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち,鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけの土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨(いばら)の間に落ち、茨(いばら)が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。』」と。

 まさに、全体が一つのたとえとして語られ、この世における神の支配の歴史、すなわち多くの妨げに遭遇(そうぐう)するけれども、最後には大成功を収めるという、救いの完成という視点で収穫(しゅうかく)に合わせた箇所といえましょう。

 それに対して、18節からは、このたとえの説明として、特に、初代教会の直面した個々(ここ)の問題、或いは信仰生活のさまたげなどを扱ったものにほかなりません。

 ですから、このたとえの説明として、18節から23節に、次のように一語一句には別々の比喩的意味を強調しています。

「だれでも御国(みくに)の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」と。

 次に、「石だらけの所に蒔かれたものとは、みことばを聴いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、みことばのために艱難(かんなん)や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」と。

 さらに、「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い患いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」と。

 そして最後に「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

と。

 ちなみに、ルカの並行箇所(かしょ)では、次のように説明されています。

「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである(ルカ8:15)。」と。

 ところで、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、みことばの大切さについて、次のように強調しておられます。

「福音宣教全体は、神のことばに根ざし、それを聞き、黙想し、それを生き、祝い、あかしします。聖書は福音宣教の源泉です。従ってみことばを聴く養成を受け続ける必要があります。教会は自らを福音化しなければ、福音を宣教できません。神のことばを『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが絶対に必要です。聴いて祝うみことばが―何よりも感謝の祭儀の中で―、キリスト者を養い、内的に強め、日々の生活の中で福音をあかしすることができるようにしてくれます(同上174項)。」と。

 さらに、みことばの学びの必要性を次のように強調しておられます。

「聖書の学びは、すべての信者に開かれていなければなりません。・・・福音化には、みことばに親しむことが必要です。また、教区や小教区、その他カトリックの諸団体には、聖書の学びに真剣に粘り強く取り組むこと、さらに個人や共同でのレクチオディビナ(霊的読書)を促すことが求められています(同上175項)。」と。

 皆さん、この教皇フランシスコの切なる願いを真剣に受け止め、教会ぐるみで実行に移して行きましょう。そうすれば、教会は霊的力のみなぎる生き生きとした共同体に刷新されるのではないでしょうか。

 このミサで、教会が真に宣教共同体に成長できるように共に祈りましょう。

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230716.html