年間第14主日・A年(23.7.9)

「諸国の民(たみ)に平和が告げられる」

 

エフライムから戦車をエルサレムから軍馬(ぐんば)を断つ(ゼカリア9:10参照)

   早速、今日の第一朗読の時代背景ですが、イスラエルの民が、半世紀にわたる試練の時、バビロンにおける捕囚時代を終えて、エルサレムに戻った時代であります。

 帰還(きかん)できたイスラエルの民の切なる願いは、言うまでもなく神殿(しんでん)再建の必要性にほかなりません。

 そこで、預言者ゼカリアは、紀元前520年代に神秘的なビジョンの中で、主なる神が、その民を救いの福音で満たすことを、次のように預言しています。

「万軍(ばんぐん)の主はこう言われる。

 勇気を出せ。

 あなたたちは、近ごろこれらの言葉を

 預言者の口から、度々聞いているではないか。

 万軍(ばんぐん)の主の家である神殿に基礎が置かれ

 再建の始まった日から。

 以前には、人間の働きの報いはなく。

 家畜も、働きの報いに何の食も得なかった。

 ・・・

 しかし今、わたしはこの民の残りの者に対して

 以前のようではない、と万軍の主は言われる。

 平和の種は蒔かれ、ぶどうの木は実を結び

 大地は収穫をもたらし、天は露(つゆ)をくだす。

 わたしは、この民の残りの者に

 これらのすべてのものを受け継がせる(同上8:9-12)。」と。

 冒頭でいわれている「万軍の主」ですが、全能と尊敬を表す神の呼び名であり、イスラエルの土地シロの神殿に関連して使われるようになったと言うことです。 

 また、「残りの者」とは、人間の罪に対して下された神の裁きの中にも、神が自由な恵みをもって裁きを免れさせた者を意味します。

 続いて今日(きょう)の朗読箇所9章に入って言葉使いも次の様に変わります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。

 娘エルサレムよ、歓呼(かんこ)の声をあげよ。

 見よ、あなたの王が来る。

 彼は神に従い、勝利を与えられた者

 高ぶることなく、ロバに乗って来る

 雌(め)ロバの子であるロバに乗って。」と。

 この最後のくだりは、イエスのエルサレム入場の際に引用されています(マタイ21:5)。

 ですから、9章からは、来るべきメシア時代の救いの預言に発展させていると言えましょう。従って、平和の到来が次のように告げられます。

「わたしはエフライムから戦車を

 エルサレムから軍馬(ぐんば)を絶つ。

 戦いの弓は絶たれ

 諸国の民に平和が告げられる。」と。

 ちなみに、去る6月23日に、沖縄の那覇(なは)教区で、四年ぶりに、「カトリック平和巡礼」が、いとも荘厳に再開されました。

 そこで、巡礼団は、最終目的地の魂(こん)ばくの塔に到着すると十字架の道行の最後の祈りをささげ、パーント司教が次のような平和メッセージを読み上げられました。

「もう戦争はいらない。もう、悲しみはいらない。我々を大砲(たいほう)の餌(えじき)として利用するな!我々は平和の架け橋・万国(ばんこく)の津梁(しんりょう)だ!ただ平和に生きたい。ただ、わが子々孫々(ししそんそん)と共に末永く生きたい。ただ,大空、大地、海と共に優しく生きたい。戦争への備えは、戦争の始まり。戦争への備えは、必ず戦争につながることを、すべての人に悟らせてください。父よ、あなたの御手(みて)にゆだねます。戦争への備えをすべて放棄(ほうき)した平和な世界を切望しつつ、父よ、あなたの御手(みて)にゆだねます。」と。

 

これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して 幼子のような者にお示しになりました(マタイ11:25参照)

  次に今日の福音朗読箇所ですが、12使徒団の選出(せんしゅつ)と派遣説教を伝え、11章がその結びとなっています。

 ちなみに、今日の福音の直前では、回心しない町々への厳しいお叱りが語られています。

 とにかく、今日の福音の文脈では、イエスはユダヤ人から拒絶(きょぜつ)され、神への賛美を捧げることとは、ほど遠い状態にあったことがよく伝わって来ますが、そのような状況のただ中で、御父に次のような賛美と感謝をささげられたイエスに注目しましょう。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心(みこころ)に適(かな)うことでした。」と。

   この文脈で、「知恵ある者や賢い者」とは、まさにイエスを認めようとしないユダヤ人、その中でも特に律法の専門家ファリサイ派の人々といえましょう。

  つまり、彼らはイエスをメシアであると認めようとはせず、頑(かたく)なにイエスを拒んでいました。

 けれども、それも神の御計画に含まれている出来事であることを、「そうです父よ」と述べて、天の御父の御業(みわざ)に対する確信(かくしん)を示されます。

 とにかく、神が救いの真実を示そうとなさったのは、あくまでも「幼子のような者」に対してであることを強調なさいます。

 つづいて、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と、いとも優しく呼びかけてくださいます。

 さらに「わたしは柔和(にゅうわ)で謙遜(けんそん)な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と、慰めてくださいます。

 ここで言われている「軛(くびき)を負う」とは、人が生きるようにと神が与えてくださる指示つまり掟にひれ伏して教えを乞う謙遜な態度と言えましょう。

 実は、当時のユダヤ社会において課せられた律法の掟を守ることのできない弱い人々を、神の救いから排除(はいじょ)すべきと、律法学者たちは主張していたというのです。

 そこで、イエスは「軛(くびき)が、かえって重荷になって疲れ果てた人々を、優しく「わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と、イエス御自身がその人々に付き添って共に背負ってくださるので、なんと「軛(くびき)は負いやすく、荷は軽くなる」というのです。

 このミサで改めて再会する復活のイエスに私達一人一人の軛を共に背負ってくださるよう共に願いましょう。

 


【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230709.html