年間第13主日・A年(23.7.2)

「わたしのために命を失う者は かえってそれを得る」

 

あの方は聖なる神の人である(列王記下4:9参照)

  今日の第一朗読ですが、列王記下による預言者(よげんしゃ)エリアの弟子エリシャのシュネムでの感動的な物語を伝えています。

 舞台(ぶたい)は、カルメル山から約25キロの所にあるシュネムという異邦人(いほうじん)の町です。

「そこに一人の裕福(ゆうふく)な婦人(ふじん)がいて、彼を引き止め、食事を勧めた。・・・彼女は夫に言った。『いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました。』」と。

 ちなみに、ここで言われている「神の人」ですが、旧約では、神の使者や預言者の呼び方であり、新約では神的(しんてき)な人間と言う意味ではなく、むしろ神の僕(しもべ)としての召命を受け、主に仕える者を指します。

 ですから、「あの方のために階上(かいじょう)に壁で囲った小さな部屋を造り寝台と机と椅子と燭台(しょくだい)をそなえましょう。」と、特別待遇を受けるにふさわしい人といえましょう。

 そこで「ある日、エリシャはそこに来て、その階上(かいじょう)の部屋に入って横になった。」と言うのです。

 そして早速(さっそく)、エリシャは、従者(じゅうしゃ)ゲハジに命じます。

「あの婦人を呼びなさい」と。

 呼ばれた彼女は、まず、ゲハジの前に来ました。そこで、エリシャが再びゲハジに「『彼女のために何をすればよいのだろうか。』」と念をおします。

 そのとき、ゲハジは、「彼女には子どもがなく、夫は年を取っています」と報告します。

 「そこでエリシャは彼女を呼ぶように命じた。ゲハジが呼びに行ったので、彼女は来て入り口に立った。エリシャは。『来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている』と告げた。」と。

 ここで最後に言われていることばは、三人の旅人の姿で、アブラハムに現れた神が、「わたしは、来年の今頃、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう(創世記18:10b)。」に、見事に繋がっていると言えましょう。

 

イエスに結ばれて神に対して生きている(ローマ6:11参照)

  次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロがまだ一度も訪れたことのないローマの教会に宛てた手紙の6章で、信者が罪の支配から解放されて神の義(ぎ)すなわち救いの恵み、特に洗礼について大切な教えをしたためていると言えましょう。

 ですから、洗礼を受けるときの目的を、次のように強調しています。

「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた」と。

 それだけでなく、実は「またその死にあずかるために洗礼を受けた」のです。

 そして、「洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。」と、断言(だんげん)しています。

 ちなみに、初代教会の洗礼式では、白衣(はくい)を着た志願者を実際に水に、全身を「父と」「子と」「聖霊によって」と、唱えながら三回浸(ひた)して洗礼を授けていました。

 さらに、使徒パウロの説明は続きます。

「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」と、強調しています。

 そして、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。」と。

 つまり、イエスは全人類の罪の贖(あがな)いのため、十字架上でご自分の命をささげられました。そして、復活させられひたすら父なる神のために生きておられるというのです。

 そして「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と、主張(しゅちょう)しています。

 つまり、洗礼を受けてキリストにしっかりと結ばれたわたしたちの人生を、天の御父のために全うすることにほかなりません。

 

自分の十字架を担ってわたしに従う(マタイ10:38参照)

 最後に今日の福音ですが、マタイが伝えるイエスの派遣説教の結びの箇所といえましょう。

 イエスは、いとも大胆(だいたん)に、次のように宣言(せんげん)なさいます。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」と。

 いきなり、大変厳しい要求をなさいますが、これはあくまでも比較した言い方で、イエスの弟子になるためには、両親を愛する以上に、イエスを、すべてを超えて愛し続ける覚悟があってこそ、イエスの弟子としての召命を、全う出来るということではないでしょうか。

 ですから、親の立場で、この弟子としての召命を、全うするためには、息子や、娘に対する愛以上のイエスに対する愛を全うしなければならないのです。

 さらに、イエスの弟子となるために自分の生き方の根本的変革が必要なことを、次のように宣言なさいます。

「また、自分の十字架を担(にな)ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と。

 実は、このご命令は、ペトロのイエスに対する信仰告白の直後の弟子としての召命を全うする生き方として、次のように強調なさっておられます。

「わたしについて来たい者は、自分を否定し、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(同上16:24)。」と。

 つまり、自己主張をやめない限り、イエスに忠実に従うことはできないというのです。

 続いて、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」と、極めて逆説的宣言をなさいます。

 ですから、今日の第二朗読で確認したように、イエスが死者の中から復活させられたので、わたしたちは新しい復活の命に生かされるようになったのですから、自分の命を得ようとするのをやめて、すべてをイエスに委ね切ればいいのです。

 主は命じられました。

「今日(きょう)は生えていて、明日(あす)は炉(ろ)に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。・・・何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる(同上6:30-33)。」と。

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230702.html