年間第12主日・A年(23.6.25)

「だから恐れるな」

 

主に向かって歌い主を賛美せよ(エレミヤ20:13参照)

   早速、今日の第一朗読ですが、紀元前七世紀末から六世紀初めにかけてエルサレムで活躍した預言者エレミヤの「主に向かって歌い、主を賛美せよ(同上20:13)。」と叫ぶ、極めて力強い預言にほかなりません。

 実は、この預言書には、エレミヤの告白と呼ばれ、まさに預言者としての苦悩と不安とを赤裸々(せきらら)に神に訴える箇所があります。

 ちなみに、今日の朗読箇所は、その最後のくだりであり、特に7節から13節までは、人々の無理解への鋭い抗議(こうぎ)が強調されています。

 さらに、14節からは、なんと「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを、生んだ日は祝福されてはならない。」と、自分の人生を呪う言葉が語られています。

 とにかく、不正を非難(ひなん)し、ユダ王国を襲う強国アッシリアからの恐怖を預言するエレミヤを、敵対者(てきたいしゃ)たちは、エレミヤのことを偽預言者(ぎよげんしゃ)とみなしたというのです。

 そのような、厳しい試練の最中(さなか)、預言者は、

「しかし主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。」と、神を信頼し、「それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき 勝つことを得ず、成功することもなく、甚(はなは)だしく辱(はずかし)めを受ける。」ことになることを、信じることしかできなかったのであります。

 さらに祈り続けます。

「万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方(かた)よ、わたしに見せてください、あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします。」と。

 ここで注目すべきは、「わたしに報復(ほうふく)させてください。」と、祈るのではなく、「わたしに見せてください。あなたが彼らに復讐(ふくしゅう)されるのを。」と、祈っていることではないでしょうか。

 そして、「わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします。」と、神のみ手にすべてを委ねきっていることです。

 確かに、このエレミヤの祈りは、敵に対する憎しみから始まっていますが、復讐(ふくしゅう)を放棄し、すべてを神に委ねているのは、悪をうやむやにしない神の正義を信じているからにほかなりません。

 つまり、預言者にとって大事(だいじ)なことは、敵の滅びそのものではなく、あくまでも神の正義が示されることと言えましょう。

 そして、最後に「主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を、悪事(あくじ)を謀(はか)る者の手から助け出される。」と、声高らかに神を褒めたたえています。

 

耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい(マタイ10:27b参照)

  次に、今日の福音朗読箇所ですが、イエスが弟子たちを派遣(はけん)する説教のさわりの箇所といえましょう。

 実は、マタイ福音書は、イエスが出身地ガリラヤにおいて福音宣教の第一声を発した後(あと)、早速(さっそく)、弟子たちの召命を描き、そして「山上の説教」においてイエスの教えをまとめています。さらに、今日の箇所の派遣説教の後半に発展させています。

 冒頭で「人々を恐れてはならない。」と、力強く忠告なさいます。

 ここでいわれている「人々」とは、弟子たちを地方法院(ちほうほういん)すなわち地方裁判に引き渡し、ユダヤ教の会堂で弟子たちを、鞭打(むちうつ)であろう迫害者たちにほかなりません。

 なぜなら、「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」からです。

 つまり、弟子たちが宣(の)べ伝えようとしている福音は、人々の目にはまだ隠されている教えなのです。

 ですから、そのために弟子たちも師匠(ししょう)と同じように迫害をも覚悟(かくご)しなければなりません。

 けれども、その教えの正しさが明らかにされる日つまり終末(主の再臨)においてすべてが明らかにされます。

 そこで、弟子たちが恐れなくてはならないのは、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」つまり父なる神にほかなりません。

 なぜなら、私たちの命を支配できるのは、天の御父だけであることは言うまでもありません。

ですから、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」

 つまり、一羽では売り物にならない雀でさえも、その命は神の許しなしには奪われることはないというのです。

 このように、神が雀を守られるなら弟子であるわたしたちは、神のご加護(かご)から外れることは決してありません。

 ですから、現在においても、未来においても恐れる必要のないわたしたちは、「明るみで言い、屋根の上で言い広める」(27節)につきるのではないでしょうか。

 ちなみに、教皇フランシスコは、近年(きんねん)、「出向いていく教会になる」ようにしきりに呼びかけておられます。

 特に、その使徒的勧告『福音の喜び』において、次のように強調なさっておられます。

「出向いて行きましょう。すべての人にイエスのいのちを差し出すために出向いて行きましょう。・・・わたしは、出かけて行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会のほうが好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んでいる教会よりも好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、脅迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません(同上49項)。」と。

 さらに、同じ使徒的勧告によって、すべてのキリスト者は、福音宣教と言う教会の本来の使命に呼ばれていることを、次のように勧告(かんこく)なさっておられます。

「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに働いています。アブラハムは、新しい土地へと出発するようにという呼びかけを受け入れました。モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』という神の呼びかけを聞いて、イスラエルの民を約束の地に導きました。・・・今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』というおことばは、教会の宣教の常に新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、この宣教の新たな『出発』に呼ばれています。・・・わたしたち皆が、この呼びかけに答えるよう呼ばれています。つまり、自分にとって居心地の良い場所から出て行って、福音の光を必要としている社会の隅(すみ)に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれています(同上20項)。」と。

 このミサで派遣されるそれぞれの場で、宣教できるよう祈りましょう。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230625.html