年間第11主日・A年(23.6.18)

「天の国は近づいた」

 

祭司の王国、聖なる国民となる(出エジプト19:6a参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、神の民イスラエルが、エジプトの奴隷の家から、まさに奇跡的に脱出し、シナイ半島を横切り三か月目(さんかげつめ)にようやくシナイの荒れ野に辿りついた時の主なる神との出会いを、次のように荘厳に伝えています。

「その日、イスラエルの人々は、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕(てんまく)を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営(しゅくえい)した。

 モーセが神のもとに登っていくと、山から主は彼に語り掛けて言われた。

『ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。

 あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲(わし)の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。」と。

 実は、この1節には、「イスラエルの人々は、エジプトを出て三月目(みつきめ)のその日」と、「時」が特定されています。すなわち、エジプト脱出後の三度目の新月(しんげつ)の最初の日と確定しています。ここで言われている新月(しんげつ)ですが、文字通り新しい月を意味しています。

 また、「山に向かって」「山」ですが、神が現れてくださる舞台(ぶたい)を現していると言えましょう。

 さらに、「山から主は語り掛ける」とは、4節から始まるそれまでの主なる神の導きを述べることにほかなりません。

 つまり、「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと。」です。つまり、特に10の災い(同上7:14-11:10)が、立て続けに起こったことと過ぎ越しの出来事などです。

 ここで、「鷲(わし)の翼に乗せて」と、つまり、鷲(わし)は早く飛ぶだけでなく、活力にあふれ、おそるべき力と遠くまで見通す力を持ち、雛(ひな)を優しく育てるので、神の導きと御加護(ごかご)を、このように譬(たと)えたと言えましょう。

 また、「わたしのもとに連れて来たことを。」と、神との出会いの場に連れて来たことを確認します。

 さらに、このように、神のそれまでのイスラエルに対する慈しみ深い導きを、確認した上(うえ)で、また、改めて次のように命じられます。

「だから、今わたしの声に聞き従い

 わたしの契約を守るならば

 あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。

 世界はすべてわたしのものである。

 あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」と。

 ここで言われている「わたしの声に従い」とは、言うまでもなく、神ご自身とそのお言葉への従順ではないでしょうか。なぜなら、神は、声、言葉、響きをとおしてご自身とその意思(いし)を示されるからであります。

 また、「わたしの契約」とは、ここでは神の導きとみことばに対するイスラエルの従順(じゅうじゅん)に基づいて成り立つ神と人間との契約にほかなりません。

 さらに、「わたしの宝」とは、神の大切な所有物(しょゆうぶつ)を意味します。

 次に「祭司の王国」とは、世界の民のとりなしとして、主に仕える者たちの集団を意味しています。

 そして、「聖なる国民」「聖」とは、本来の意味は、分離された者ですが、ここでは、諸国民の中にあって、神のために、神によって分離されたイスラエルのことにほかなりません。

 ちなみに、ペトロの第一の手紙では、つぎのような説明があります。

「あなたがたは、選ばれた民、王の系統(けいとう)を引く祭司、聖なる国民となった民です(同上2:9)。」と。

 

イエスはこの十二人を派遣するにあたり(マタイ9.5参照)

  次に、今日の福音ですが、マタイが伝える神の国の宣教者としての十二使徒の使命についての主のみことばにほかなりません。

 まず、冒頭で9章の最後の節を、引用してまさに宣教を必要としている人々の様子を次のように報告しています。

「〔そのとき、イエスは、〕群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」と。

 ちなみに、教皇フランシスコは、福音宣教において対象としてだれを優先すべきが、その使徒的勧告『福音の喜び』で、つぎのように強調なさっておられます。

「教会は例外なくすべての人のもとに出向いていかなければなりませんが、一体、だれを優先すべきでしょうか。福音書は、非常に明確な指針を示しています。つまり、友人や近隣の裕福者(ゆうふくしゃ)ではなく、むしろ貧しい人や病人です。彼らは大抵見下され、忘れられていて、『お返しが出来ない』(ルカ14:14)人々です。・・・今日(こんにち)も、そしていつも、『貧しい人々は優先的に福音の対象です』。見返りを求めることなく福音を彼らに伝えることは、イエスによってもたらされた神の国のしるしです。短刀直入に言わねばなりませんが、わたしたちの信仰と貧しい人々との間には、切っても切れない密接な絆があるのです。決して彼らを、一人ぽっちにしてはなりません(同上48項)。」と。

 とにかく、ここで、イエスは、極めて重要な発言をなさいます。

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と。

 そこで、イエスは早速(さっそく)、「十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能(けんのう)をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」と。

 ここで、確認すべきことですが、福音宣教には、必ず悪霊からの解放と、癒しとが、同時進行すべきと言うことです。

 ちなみに、ここで「十二使徒」という言葉が初めて使われています。

 この称号(しょうごう)は、厳密(げんみつ)には、聖霊降臨後十二人の弟子だけに与えられたものです。

 ちなみに、「十二」と言う数は、イスラエルの部族の数なので、使徒たちこそが、新しいイスラエルのかしらであることを、示そうとなさったのではないでしょうか。

 続いて、派遣(はけん)にあたり大切な注意事項をのべられます。

「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣(の)べ伝えなさい。」と。

 神の御計画と神とイスラエルとの契約(けいやく)によれば、救いの手はまずユダヤ人にさしのべられ、そして彼らをとおしてすべて人々におよぶことになっていまいした。 

 ここで言われている「天の国」ですが、聖書の他(ほか)の箇所(かしょ)では、すべて「神の国」となっています。

  わたしたちも、このミサの最後に〈行きましょう。主の福音を告げ知らせるために。〉と、派遣されます。

 この尊い派遣を実践できるように共に祈りましょう。

 

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230618.html