キリストの聖体の祭日(23.6.11)

「わたしたちは大勢であっても一つの体です」

このパンを食べる者は永遠に生きる(ヨハネ6:58c参照)

  ちなみに、本日(ほんじつ)は、キリストの聖体の祭日に定められていますが、近年諸外国では、イエスの最も尊い体と血の祭日に改められています。

 それは、恐らく中世のヨーロッパにおいて、礼拝行事に対する会衆の積極的な参加は、大幅に減少し、ミサから離れて、関心が、もっぱら執行(しっこう)される秘跡(ひせき)に集中されるようになり、結果的にミサに参加する代わりに特に、ご聖体にのみ集中し、ベネディクションや聖体行列というような御体(おんからだ)だけを礼拝するようになったという歴史的経緯(けいい)の結果ではないでしょうか。

 ですから、第二バチカン公会議が、典礼の刷新を目指した結果、本日の祭日はイエスの御体と御血の両形態を祝う、祭日に変えたと言えましょう。

 それでは、いつもの様に、今日(きょう)の聖書朗読箇所を紐どいてミサの素晴らしい神秘(しんぴ)に近づいてみましょう。

 まず、今日(きょう)の福音朗読箇所(かしょ)によって、ヨハネが伝える御体(おんからだ)と御血(おんち)についてのイエスご自身の切なる思いを学んで行きましょう。

 実は、今日の朗読箇所は、パンの奇跡(ヨハネ福音書ではしるし)の後(あと)、ご自分の御体(おんからだ)と御血(おんち)についての荘厳(そうごん)な説教からの抜粋(ばっすい)であります。

 しかも、感謝の祭儀(エウカリスティア)が、テーマになっています。

 ですから、イエスは次のように宣言なさいます。

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」と。

 ここで言われている「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」と言うくだりですが、ちなみに、創世記においては、罪を犯してしまったアダムとエバが命(いのち)の木の実をも食べないように、楽園(らくえん)から追い出されたのですが、ここでは、それとは対照的に、イエスこそが世を永遠に生かすためのいのちのパンであると主張なさいます。

 ここで確認すべきことですが、カトリック信者を生かすためだけではなく、世全体を生かすためと念を押されていることです。

 勿論(もちろん)、ここで言われている「世」とは、ニコデモとの対話で強調なさった、次のようなおことばにほかなりません。すなわち、

「神は、その独り子お与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。神が御子(おんこ)を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子(おんこ)によって世が救われるためである(同上3:16-17)。」と。

 さらに、ここで言われている「わたしの肉」ですが、マタイ(26:26)、マルコ(14:22)、ルカ(22:19)では、いずれも「体(からだ)という言葉が用いられていますが、イエスが最後の晩餐(ばんさん)の席上(せきじょう)、実際に語られたアラム語に相当しているようです。

 ところで、ユダヤ人たちの反応(はんのう)を次のように伝えています。

「それで、ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか』と、互いに激しく議論し始めた。」というのです。

 ですから、イエスは、次のように、核心(かくしん)に触れる説明を続けられます。

「アーメン、アーメンわたしは言う。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得(え)、わたしはその人を終りの日に復活させる。」と。

 ここで言われている「肉を食べ」という言い回しですが、一般にはその人を殺すことを意味します。

 ですから、イエスが、この表現を用いてユダヤ人を驚かしてしまうのですが、実は、まさに逆説的(ぎゃくせつてき)に、人々が永遠の命(いのち)に与ることを主張なさったのではないでしょうか。

 また、「血を飲む」ことは、ユダヤ教では厳しく禁じられていました。

 けれども、人の贖(あがな)いためにイエスの血を飲むことは、まさに永遠の命を得ることになると言うのです。

 イエスはさらに説明を、次のように続けられます。

「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内(うち)におり、わたしもまたいつもその人の内(うち)にいる。」と。

 ここで言われている「いつもわたしの内(うち)におり、わたしもまたいつもその人の内(うち)にいる。」というくだりは、直訳的(ちょくやくてき)には、「わたしにとどまり、わたしもその人にとどまる。」となります。

 ちなみに、最後の晩餐の席上、切々と語られた説教で、「イエスはまことのぶどうの木」について語られたときにも、「つながっている」と訳された同じ動詞が使われています。

 さらにイエスの説教は続きます。

「生きておられる父がわたしをお遣(つか)わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者も私によって生きる。」と、念を押されます。

 そして、最後に大切な宣言をなさいます。

「これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」と。

 ここで言われている「永遠に生きる」ですが、ヨハネ福音書では、永遠の命(いのち)というキーワードが、頻繁(ひんぱん)につかわれており、その説明は、最後の晩餐(ばんさん)が終わり、イエスがお一人で天の御父に向かって祈られた場面で、次のように説明しておられます。

「永遠の命とは、唯一(ゆいいつ)のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣(つか)わしになったイエス・キリストを知ることです(同上17:3)。」と。

 ちなみに、ここで言われている「永遠の命」ですが、共観福音書では、この命が始まるのは死後(しご)ですが、ヨハネ福音書では、まさにイエスを信じた時(とき)にほかなりません。

 

皆が一つのパンを分けて食べるからです(一コリント10:17b参照)

 次に今日の第二朗読ですが、使徒パウロがコリントの教会に宛てた手紙の中で、同じ御体(おんからだ)と御血(おんち)を分かち合うことによってこそ、教会共同体の一致が強められるだけでなく、共同体を絶えず育てていく原動力になることを、次のように強調しています。

 「わたしたちが神を賛美する賛美の杯(さかずき)は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体(からだ)にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体(からだ)です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」と。

 ここで言われている「賛美の杯(さかずき)ですが、おそらくユダヤ教の過越祭の典礼用語と考えられます。ですから、わたしたちのミサこそ、イエスの御血が注がれている杯(さかずき)こそ「賛美の杯(さかずき)と言えるのです。

 また、「一つのパンを分けて食べる」ことによって共同体の一致を強調しているのではないでしょうか。

 ですから、聖ヨハネ・パウロ二世教皇は、その回勅「教会に命を与える感謝の祭儀」において、次のように強調なさいます。

「聖体拝領は、キリストのからだである教会が一致するよう力づけます。・・・わたしたちは、キリストと一致して、互いに与え合い、恵みを分かち合います(同上23項)。」と。

 わたしたちも、毎回、ミサを共に捧げることによって、わたしたちの共同体がキリストを中心に一致できるよう努めましょう。

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230611.html