三位一体の主日・A年(23.6.4)

「栄光は父と子と聖霊に」

 

父と子と聖霊の名によって洗礼を授け(マタイ28:19参照)

 ちなみに、今日(きょう)の三位一体の祭日は、時の教皇ヨハネ22世によって、1334年に定められました。

 それでは、聖書と伝統を手掛かりに、三位一体の神秘を、共に振り返ってみましょう。

 まず、最初に引用できるのは、マタイ福音書の次のような荘厳(そうごん)な、主イエスご自身のご命令にほかなりません。

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(同上28:16-20)。』と。

 ここで言われている、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」というくだりですが、当時すでに実施されていた洗礼式文に由来しているようですが、その式文の基礎となっている三位一体の教義は、その源(みなもと)は、まさにキリストご自身に由来すると言えましょう。

 また、「名によって」ですが、「名に入れる」とも訳すことが出来、「聖別して神のものとし、神の本性(ほんせい)に与(あずか)らせる」(一ペトロ2:9-10, 二ペトロ1:4参照)ことを意味しています。

 ですから、わたしたちは、洗礼によって主イエスのものとなり、イエスと一致(いっち)し、さらにイエスの御父(おんちち)をわたしたちの父にいただき、イエスの霊をわたしたちの霊としていただくことにほかなりません。

 とにかく、聖三位一体という教義は、初代(しょだい)教会の初めから、特に洗礼を授けることによって、常に教会の生きた信仰の土台に置かれて来たと言えましょう。

 ですから、この教義は、初めから、洗礼式での信仰宣言として定められた式文として示されていたと言えましょう。

 さらに、教会の使命である福音宣教、カテケージス(教理教育)、そして祈りにおいて、定められた言い回しは、すでに使徒たちの文書にも見られ、特に私たちのミサの初めに司式司祭が会衆に「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。」と言う挨拶(あいさつ)において見事に示されています。

 ちなみに、西暦4世紀に活躍した教父(きょうふ)で教会博士である聖(せい)アタナシオは、その手紙によって次のように三位一体についてしたためています。

「この信仰によると、聖にして完全な三位一体があります。それは、父と子と聖霊のうちに神として認められます。・・・それは、全く自己同一で、本性上(ほんせいじょう)は分けることが出来ず、またその能力は唯一です。

 実に、父はみことばを通して聖霊においてあらゆることをなさいます。こうして、聖なる三位一体の一体性はたもたれているのです。この意味で、教会においては、『すべてのものの上にあり、すべてのものを通して、存在し、すべてのものの内(うち)におられる(エフェソ4:6参照)。』唯一の神が告げられています。実(じつ)に、唯一の神は父として、源(みなもと)として、泉として『すべてのものの上にあり』、みことばによって『すべてのものを通して存在し』、聖霊において『すべてのもののうちに』おられます。」と。

 ここで、カルメル会で発行した「祈りの友」にある「三位一体の祭日の祈り」を、紹介させていただきます。

「はかりがたい神秘に満ちた神よ、あなたは御子(おんこ)の口をとおして、父と子と聖霊の三位の神秘を、わたしたちに示してくださいました。そして、聖霊を送ってわたしたちを聖なる三位の交わりに招いてくださいます。

 わたしたちは、父と子と聖霊の交わりにおいて唯一の神であるあなたをたたえ、感謝をこめて祈ります。

 父よ、あなたは天地の始まる前から、キリストにおいてわたしたちをお選びになり、聖霊の交わりに招いてくださいました。

 あなたの限りない愛をたたえます。

 御子(おんこ)よ、あなたは、わたしたちが神の子どもになれるように、尊い命をささげ、死に打ち勝って復活させられました。このはかりがたい救いの神秘を感謝します。

 聖霊よ、あなたは神の息吹(いぶき)によって、全世界に広がる教会を一つに結び、限りない賜物(たまもの)で満たしてくださいます。

 心から喜び、あなたの大いなる御業(みわざ)をたたえて祈ります。

 栄光は父と子と聖霊に、初めのように、今も、いつも、世々(よよ)に、アーメン」

 続いて、御父イエス・キリストについて、使徒パウロが、そのコリントの教会への第一の手紙で、次のように説明しています。

「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物(ばんぶつ)はこの神から出(で)、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物(ばんぶつ)はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです(同上8:5-6)」と。

 わたしたちが、この世で生きて行くことができるのは、常に、天の御父と御子(おんこ)によって生かされていることを、片時も(かたとき)忘れないようにいたしましょう。

 そして、福音史家(しか)ヨハネが教えてくれる聖霊のなくてはならない働きについて、確認してみましょう。

 福音史家ヨハネは、聖霊の働きについてのイエスのお言葉を次のように教えてくれます。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟(おきて)を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を、わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証(あか)しなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証し(あか)するのである(ヨハネ15:26-27。)」と。

「すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方(かた)は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、こらから起こることをあなたがたに告げるからである(同上16:13)。」と。

 このように、イエスによってわたしたち一人ひとりに、また教会共同体の上に聖霊が注がれているのです。

 ですから、イエスが聖霊によって弟子たちを派遣なさったように、わたしたちも、まさに共同体ぐるみで、福音を出会う一人ひとりに伝えていく使命を忠実に実践(じっせん)しなければなりません。

 教皇フランシスコは、その使徒的勧告(かんこく)によって、次のように呼びかけておられます。

「わたしたち皆が、『行きなさい』という主の呼び掛けに応えるように呼ばれています。つまり、自分にとって居心地(いごこち)のよい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれています(同上20項)。」と。

 

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230604.html