主の昇天・A年(23.5.21)

「すべての民をわたしの弟子にしなさい」

 

聖霊降臨の約束とイエスの昇天

 今日の第一朗読ですが、福音史家ルカが、その福音書(第一巻)の第二の書(第二巻)として、編集した使徒言行録の冒頭の箇所であります。

 ですから、両書(りょうしょ)とも、次のような同じ序文(じょぶん)で始めています。

「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」と。

 ここで言われている「教え始めてから」ですが、イエスの先駆者洗礼者ヨハネの宣教活動と、イエスが、ヨハネから洗礼を受けて、最初の宣教活動を始められた時を示しています。

 また、「聖霊を通して」とは、「聖霊の働きによって」とも、訳すことが出来、イエスの宣教活動の初めにおける聖霊の働きと見事に一致します(同上4:14,18参照)。

 そして、「天に上げられた日まで」とは、言うまでもなくイエスの昇天(しょうてん)を示しています。

 こうして、使徒たちの宣教活動は、イエスの初期の活動においての聖霊の絶えざる働きと、見事に連携(れんけい)しています。

 そして、続きます。

 「イエスは苦難を受けた後(のち)、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話されました。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられました。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる(さず)からである。』」と。

 また、ここで言われている「弟子たちと食事を共にしていたとき」ですが、「彼らと共にいるとき」とも訳すことが出来、特に復活後にイエスが弟子たちに現れたのも、毎回、食事の席上(せきじょう)でした(ルカ24:30-31;41-43参照)。

 さらに、「エルサレムから離れず」と、念を押されたのは、とにかく、ルカ文書においては、エルサレムは極めて重要な役割を果たしています。つまり、この地でこそ、イエスが、ご自分の使命を全うなさったので、弟子たちにとっては、彼らの宣教活動の原点(げんてん)にほかなりません。

 ついで、「ヨハネは水で洗礼を授けた(さず)が、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる。」と、改めて、「聖霊による洗礼」であると念を押されます。

   ですから、ヨハネの洗礼は、イエスが聖霊によってお授けになる洗礼の準備にほかなりません。そして、それはイエスが御父の右に上げられ、使徒たちに聖霊が降(くだ)ったときに初めて実現すると強調なさいます。

 そこで、今度は、使徒たちが、イエスに改めて尋ねます。

「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と。

 おそらく、使徒たちは、まさか、イスラエルの政治的王国を再び立て直すことを考えてはいなかったでしょう。

 実は、使徒たちが願っていたのは、イエスの復活と、間もなく実現する聖霊降臨の約束とによって、神の国がすぐにでも完成されるものと思って、このような質問をしたのではないでしょうか。

 ですから、イエスは、改めて念を押されます。

「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」と。

 つまり、神の国の完成は、いかなる人にも知らされていないと言うのです。

 ですから、イエスは、聖霊降臨と神の国の完成とを、はっきりと区別なさっておられます。すなわち、イエスの昇天後まもなく聖霊の降臨がありますが、神の国の完成つまり終末は、だれにも知らされない未来に実現すると強調なさいます。

 つづいて、核心(かくしん)に触れる宣言をなさいます。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と。

 ここで言われている「証人となる」とは、具体的には、使徒たちこそが、イエスの生涯(しょうがい)と、その死と復活との証人となる使命を与えられていると言うのです。

 しかも、その尊い使命を果たすためには、聖霊の助けがなくてはならないのです。

 ちなみに、証人という言葉のギリシャには、「証言者としての生涯つまり殉教者」と言う意味をも含んでいます。

 そして、いよいよ「イエスは彼らの見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」と、いとも荘厳(そうごん)に報告しています。

 ここでは、確かに、イエスが天に上げられとことを、まさに肉眼(にくがん)で見える出来事として書き記しています。

 ですから、使徒たちは、主の昇天を目撃(もくげき)することによって、イエスが確実に神の栄光に入られたことの証人となったのです。

 ところが、「白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様(ありさま)で、またおいでになる。』」と、強調します。

 まさに、イエスは、最高の審判者(しんぱんしゃ)として雲に包まれて、この世に再び来られると言うのです。つまり、初代教会の信者たちは、まさにイエスの再臨(さいりん)を心から待望していたのではないでしょうか。

 

使徒たちの派遣と使命

 次に、今日の福音は、山上でイエスから弟子たちが、派遣命令をいただく場面であります。

 ここで、「しかし、疑う者もいた。」と報告していますが、使徒たちは、イエスに再会するまでは、疑っていたという意味で、「彼らがかつては疑っていた」という訳もありますが、マルコの関連箇所では、「その後(のち)、彼ら十一人が食卓に着いている所にイエスは現れ、その不信仰と頑なな心とをお咎めになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである(マルコ16:14)。」と断言しています。

 ところが、「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。』と。

 わたしたちの教会こそ、福音宣教至上命令をいただいている宣教共同体にほかなりません。この尊い使命をいつも主と共に実践できるように共に祈りましょう。

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230521.html