聖霊降臨の主日・A年(23.5.28)

「一同は聖霊に満たされて話し出した」

 

教会の誕生を振り返って

 典礼の暦では、復活の主日に始まった50日間をまさに一つの祝日として祝い続けた復活節が、今日の聖霊降臨の主日のミサで終り、明日からは年間に入ります。

 それでは、早速、今日の第一朗読の使徒言行録が伝える聖霊降臨の出来事を少し丁寧に振り返って見ましょう。

 まず、冒頭で、五旬祭の日が来てと、その日は、ユダヤ教の三大祭りの一つであるペンテコステつまり五旬祭の当日だったのであります。

 ちなみに、このペンテコステ(五旬祭)は、どんな祭りなのでしょうか。

 元々は麦の収穫を祝う祭りでしたが、モーセがシナイ山で神から十戒(じゅっかい)を授かった記念祭でもあり、過越祭から数えて丁度50日目に当たるので、ギリシャ語の50を表すペンテコステがその祭りの名前となったのであります。

 とにかく、この祭りには、皆、エルサレムの神殿に詣でる義務があったので「巡礼の祭り」とも言われていたそうです。

 次に今日の聖霊降臨を体験した人たちは一体誰だったのでしょうか。

 それは、同じ使徒言行録1章13節で説明されているエルサレムにある宿の二階に集まっていた母マリアとイエスの兄弟たちと弟子たちにほかなりません。

 それでは、聖霊が彼らに降ったときの様子を、ドラマチックに描写しているルカの説明を見てみましょう。

「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった。」と、最初は、音の世界で出来事を描いております。次に、炎がそれぞれの頭の上に舌の形でとどまったというイメージで報告しています。

 まず炎のような、とありますが、旧約聖書では、炎は神の臨在のしるしであり、栄光の現れのイメージです。

 また、ヘブライ語では、霊や息吹や風などを表す言葉がルアファであります。ギリシャ語のプネウマも風、息などを意味しますが、とにかく、その霊が舌の姿で示されたのは、何か話すことに影響を及ぼす霊的な力に関係するからではないでしょうか。

 ですから、聖霊が降った一同は、まさに聖霊に満たされ、語りだした、しかも外国語で話し始めたという奇跡的体験にほかなりません。

 ところで、この聖霊に満たされと言う言い回しは、ルカが好んで使っています。例えば、マリアの親類エリザベトは、マリアをザカリアの家に迎えたとき、

「聖霊に満たされて、声高らかに『あなたは女の中で祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています。』と叫びました」

 また、最初の殉教者ステファノが、石打の刑に処せられたとき、「聖霊に満たされて天をじっと見つめていた彼は、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見た。」(使徒7.55のであります。

 ですから、わたしたちもミサにおいて、「その聖霊に満たされて、キリストのうちにあって一つのからだ、一つの心となりますように。」と祈ることができるのです。

 

宣教活動の始まりは教会の誕生

 とにかく、聖霊に満たされた弟子たちは、直ちに、エルサレムに巡礼のために帰って来ていたあらゆる国々の人々の言葉で、福音を語り始めたというのであります。まさに、教会の誕生の出来事と言えるのではないでしょうか。

 なぜなら、すでに、イエスは、天に昇られるとき、弟子たちに次のように命じられたからにほかなりません。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことすべてを守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」(マタイ28.18-20

 このイエスの宣教命令を、マタイは、その福音書の最後の締めくくりとして伝えていますが、聖霊降臨の出来事とつなげることによって、まさに、教会の最初の宣教活動が開始されたと言えましょう。

 とにかく、福音宣教こそが、まさに教会の存在理由であることは、福者パウロ六世教皇もその使徒的勧告において次のように強調しております。

「福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く根差した最も特有の恵みであり、召命です。教会は、まさに福音をのべ伝えるために存在しています。すなわち、神のことばを説き、教え、恵を与える手段となり、罪人を神と和解させ、キリストの死と栄光ある復活の記念であるミサによってキリストのいけにえを、永続されるために教会は存在しているのです。」(『エヴァンジェリイ・ヌンチアンディ』14項)

 

わたしもあなた方を遣わす、聖霊を受けなさ

 次に今日の福音ですが、イエスが週の初めの日、天の御父によって復活させられた夕方、ユダヤ人を恐れて隠れていた弟子たちの真ん中に突然現れたという感動的な出来事を伝えております。

 まず、すべての戸に鍵をかけ、隠れていた弟子たちですが、自分たちもイエスと同じ目に合うのではないかと、特にユダヤ人の指導者たちを畏れ、ひそかに隠れていたのです。その段階では、まだ、教会は誕生していません。

 けれども、その弟子たちに、まず平和を与えてから、すぐに彼らを派遣なさいます。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。・・・聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが許せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と。

 つまり、福音記者ヨハネにとっては、イエスの復活と、聖霊の注ぎと、弟子たちの派遣は、まさに同じ日の一つの出来事にほかなりません。

 しかも、それは、まさにエルサレムにおける最初の教会の誕生と言えましょう。ですから、いつの時代においても、教会は、世間から隠れた閉鎖集団になってはいけないのです。

 近年、教皇フランシスコは、しきりに「出向いて行く教会」になるよう切に訴え続けておられます。

今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』と言うおことばは、教会の宣教の常にあらたにされる現場とチャレンジを示しています。皆が、宣教のこの新しい『出発』に招かれています。つまり、自分にとって居心地(いごこち)のいい場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう招かれているのです。」(『福音の喜び』20項)

「弟子たちの共同体の生活をみたす福音の喜びは、宣教の喜びです。・・・この喜びは、福音が告げられ、実を結び始めていることのしるしです。けれどもこの喜びには、自分の殻から抜け出て、自分を捧げるというダイナミックな行動力が伴います。」(同上21項)

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、地域、そして職場において、聖霊に満たされて福音を告げ知らせることが出来るように共に祈りましょう。

 


 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230528.html