復活節第6主日・A年(23.5.14)

「父は別の弁護者を遣わしてくださる」

 

私を愛しているならば わたしの掟を守る(ヨハネ14:15参照)

  今日の福音も、先週に引き続き福音史家ヨハネが伝えるイエスの最後の晩餐(ばんさん)の席上(せきじょう)、切々と語られた告別説教の第一部「聖霊を与える約束」についての箇所にほかなりません。

 心を騒がせ不安に慄(おのの)いている弟子たちに、開口一番「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」と、断言なさいます。

 では、守らなければならないイエスの掟(おきて)とは、一体どんな掟(おきて)なのでしょうか。

 実(じつ)はすでに、13章で、裏切り者のユダが夜の闇(やみ)の中に去って行った直後、イエスはなんと「人の子は栄光(えいこう)を受けた。神も人の子によって栄光(えいこう)をお受けになった。」と、驚くべき宣言(せんげん)をなさいました。

 つまり、イエスを殺害する正式な許可がサタンの手先(てさき)に与えられたことで、いよいよなんとイエスは栄光に向かって上り始めたというのです。

 これこそ、私たち人間には、思いも寄らない神の御計画ではないでしょうか。

 そして、厳(おごそ)かに命じられます。

「あなたがたに新しい掟(おきて)を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が認めるようになる(同上13:34-35)。」と。

 ですから、聖霊が与えられるためには、このイエスの愛の掟を、忠実に実践(じっせん)し続けなければなりません。

 

この方は、真理の霊である(ヨハネ14:17参照)

 続いて、イエスは、宣言(せんげん)なさいます。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」と。

 まず、ここで言われている「別の弁護者」ですが、実は、ヨハネの手紙では、次のように説明されています。

「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます(一ヨハネ2:1)。」と。

 ですからすでにイエスご自身が、わたしたちのための「弁護者」にほかなりません。

 ですから、「別の弁護者」と、念(ねん)を押されたのではないでしょうか。

 では、この「別の弁護者」とは、一体、だれなのでしょうか。

 まず、片時も離れず「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」というのです。

 しかも「真理の霊」なのです。

 まず、「真理の霊」という表現は、極めてヨハネ的で、ちょうどイエスが世に対して、御父についての真理を示したように、世に対して、イエスについての真理を啓示(けいじ)する霊であるというのです。

 ですから、わたしたちが、世の人々にイエスを証しするために、聖霊こそが、なくてはならない協力者といえましょう。

 ところが、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。」と断言(だんげん)なさいます。

「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」と、念を押されます。

 つまり、イエスを受け入れる者だけが、この霊を受け入れることができるというのです。

 このことは、ヨハネ共同体が生きた当時のユダヤ社会のただ中においては、ユダヤ教との厳しい対立が背景にあったというのです。

 つまり、ヨハネ共同体に属する者が、イエスをも聖霊をも受け入れないユダヤ人の姿を見ていたのではないでしょうか。

 ですから、世とは違って、私たちの共同体は、霊を知り、霊の現存を体験できるというのです。

 続いて、語られます。

「わたしは、あなたがたを孤児(みなしご)にはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」と。

 まさに、イエスが再び来られることに、話題を進められます。

 しかも、この弁護者についての話の文脈において、イエスの再来(さいらい)の意味がより明確になります。

 今、この地上でのヨハネ共同体は、社会的・宗教的に見れば、まさに「みなしご」のような状態なのです。つまり、イエスが主であると告白することは、ユダヤ社会では、いわば村八分(むらはちぶ)の状態なのです。

 続いて強調なさいます。

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」と。

 ここで言われている「かの日」ですが、フランシスコ会訳では、「その日」となっています。

 すでに、14章の初めにあるように、イエスが、再び弟子たちを慰めるために、戻ってくることを予告しているのではないでしょうか。

 しかも、それが実現されるためには、互いに愛し合うというイエスの新しい掟をしっかりと守ることが、この到来の条件にほかなりません。

 ですから、次のように強調なさいます。

「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」と。大変ありがたいおことばをくださいます。

 

サマリアの人々が神のことばを受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた(使徒言行録8:14参照)

 最後に今日の第一朗読ですが、復活節の間、旧約聖書からではなく、一貫して使徒言行録が選ばれます。

 それは、復活の恵みを目(め)いっぱい体験した初代教会の華々しい宣教活動の歴史だからです。

 今日の場面は、サマリアへの福音宣教で、二つの特徴があります。

 まずは、フィリポが始めた宣教活動をペトロとヨハネが完成させていることです。

 ちなみにこの使徒言行録の編集者ルカによれば、イエスが復活させられたのも、また、弟子たちにご自分を示しながら天に挙げられたのもエルサレムでした。

 したがって,地の果てにまで至る宣教は、当然、エルサレムから始まるべきであり、ですから、エルサレムから派遣(はけん)されたペトロとヨハネが、フィリポの働きを受け継ぎ、人々に聖霊を授けることになったという、見事な連携プレイにほかなりません。

 私たちの共同体も聖霊の導きの下(もと)に、近隣の小教区との密接(みっせつ)な協力によって、宣教活動に取り組むことができるように共に祈りましょう。

 

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230514.html