「父への道であるイエス」
わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業をおこなうようになる
(ヨハネ14:12b参照)
早速、今日の福音ですが、先週に引き続きヨハネ福音書の14章からの抜粋(ばっすい)であります。
しかも、文脈(ぶんみゃく)では、13章から始まる最後の晩餐の席上で、切々と語られた告別説教の第一部にあたります。
ですから、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と、心を恐れと心配で取り乱している弟子たちに、切々と訴えます。
しかも、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と、父である神と、御子イエスのお二方(おふたかた)を信じなさいと念を押されます。
ちなみに、ここでくりかえされている「信じなさい」ですが、まさに不安を克服する道としての信仰を示しているのではないでしょうか。
次に、唐突(とうとつ)にも「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」と、断言(だんげん)なさいます。
ここで言われている「住む所」ですが、神から派遣(はけん)され天に帰って行くイエスは、弟子たちのために天に住まいと場所を用意し、彼らをも父と子との交わりに入れようというのです。
しかしながら、ここでは終わりの日に実現するキリストの再臨(さいりん)とは別な体験ではないでしょうか。
ですから、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と、安心させくれます。
続いて、イエスは、強調なさいます。
「わたしがどこへ行くのか。その道をあなた方は知っている。」
ところが、もの分かりの悪い弟子たちを代表して、トマスが早速、質問します。
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
それに対して、イエスは極めて重大な宣言をなさいます。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、すでに父を見ている。」と。
確かに、人となられたみことばであるイエスは、まさに全人類を導く「道」であり、イエスこそ「真理」である教えを説き、真(まこと)の「命」を、与えることによって、人類を父と一致させることがお出来になるというのです。
さらに、イエスは驚くべきことを、断言なさいます。
「今から、あなたがたは父を知る。いや、すでに見ている。」と。
ここで言われている「今から」ですが、明らかにイエスの栄光の時を指しているといえましょう。
ちなみに、13章の31節から33節では、「さて、ユダが出ていくと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。』」と。
ここで言われている、「あなたがたは父を知る。いや、すでに見ている。」ですが、イエスが栄光をお受けになった後(のち)、弟子たちは聖霊の助けによってイエスをもっとよく理解し、御父を完全に知ることができますが、この恵みは、イエスを見てそのみ言葉をもっとよく理解し、御父を完全に知ることができますが、この恵みは、あくまでもイエスを見てそのお言葉を聞いて悟った人たちにすでに与えられているということではないでしょうか。
そこで、弟子の一人フィリポが、思い切って願います。
「『主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます』と言うと、イエスは言われた。『フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。』」
ここで、明らかに御父と御子のまさに一体性が強調されています。この父と子の一体性は、弟子たちの共同体の一体性の神学的な基礎といえましょう。
また、「主よ、わたしたちに御父をお示しください。」という、愚問(ぐもん)というよりは、すべての人間の切なる願望(がんぼう)を示しているといえましょう。
さらに、この福音書が編集(へんしゅう)されていた当時のヨハネ共同体をとりまくユダヤ社会は、まさにユダヤ教との対決の中で、ますます、父と子の一体性、神とキリストとの一体性こそが、ヨハネ共同体の宣教活動を支える土台だったのではないでしょうか。
そして最後に、強調(きょうちょう)なさいます。
「アーメン、アーメン私は言う。わたしを信じるものは、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとに行くからである。」と。
このイエスの驚くべき宣言は、イエスの活動範囲であるパレスチナに限定されていたイエスの活動が世界の各地に拡大されていくことを語っているのではなく、むしろ、イエスが御父のもとに帰られてから弟子たちに注がれた聖霊の働きを示しているのではないでしょうか。
ですから、最後に念を押します。
「わたしの名によって願うことは,何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」
選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です(一ペトロ2:9参照)
次に、今日の第二朗読ですが、初代教会の洗礼式における説教や勧告をまとめたものと考えられるペトロの第一の手紙の2章からの抜粋(ばっすい)で、キリスト者の生きた石、聖なる国民となった召命を、次のように歌い上げています。
「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」と、おそらくメシアについての聖句集に基づいて編集(へんしゅう)したものでしょう。
ですから、洗礼を受けることによってキリスト者は、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」と。
復活節の第5週目に入った私たちは、主の復活の恵みを日々の生活のただ中で共同体ぐるみで体験できるように、そしてその喜びを分かち合うことができるように共に祈りましょう。