復活節第4主日・A年(23.4.30)

「わたしが来たのは羊が命を受けるため しかも豊かに受けるためである」

 

回心しなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます。(使徒2:38-39参照)

   復活節の間、第一朗読は、使徒言行録から抜粋(ばっすい)されますが、今日の箇所は、聖霊降臨の当日、聖霊に満たされた初代教皇ペトロが、福音の最初のメッセージ(ケリグマ)を、いとも大胆(だいたん)に宣言(せんげん)した締めくくりの箇所にほかなりません。

 ですから、この宣言(せんげん)の前半は、次のような力強いメッセージで始まります。

「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業(わざ)と、しるしによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。・・・

 このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけてしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。・・・

 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いてくださいました。(使徒2:22-36)」

 そこで、「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですが』と言った。

 すると、ペトロは彼らに言った。回心しなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物(たまもの)として聖霊を受けます。」と。

 ちなみに、38節で言われている「悔い改めなさい」ですが、近年カトリック教会では、「回心」と言い換えています。それは、ギリシャ語のmetanoiaが、価値観やものの見方の、福音を基準にした根本的変革を意味することから、回す心と表記するようになったと言えましょう。

 ですから、イエスとの出会いによって、それまでの自分のモノの見方、考え方を、福音化する体験ではないでしょうか。

 さらに洗礼を受けることによって「賜物(たまもの)として聖霊を受ける」ことになると強調されています。

 ちなみに、使徒パウロは、洗礼の恵みを、次のように説明しています。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父(おんちち)の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています(ローマ6:4-6)。」と。

 

わたしが来たのは羊が豊かに命を受けるためである(ヨハネ10:10b参照)

  次に、今日の福音ですが、ヨハネが語る「羊の囲いのたとえ」と、「イエスは良い羊飼い」との、二つの感動的なたとえ話であります。

 ちなみに、パレスティナ地方では、羊の囲いはたいてい人の背丈ほどの高さのある石垣でできており、出入口は一つしかなく、羊の群れは通常囲いの中で夜を過ごすということです。ですから、

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人(ぬすびと)であり、強盗(ごうとう)である。」と、断言(だんげん)できるのでしょう。

 さらに、「門から入る者が羊飼いである。」と、言い切ることができるのです。

 ここで、もう一人の人物が登場します。つまり、「門番(もんばん)は羊飼いには門を開き、羊はその声を聴き分ける。」と、言うのです。

 ちなみに、一匹一匹には、果物(くだもの)の名前がつけられており、羊飼いはその一匹一匹を名指しで呼ぶので、羊も、羊飼いの声を正確に聞き分けることができるのでしょう。

 ちなみに、近年(きんねん)、教皇フランシスコは、牧者である司祭たちには、羊の匂いがするほど、つまり、信徒一人一人に丁寧(ていねい)の関わるべきことを強調なさっておられます。

 さらに、イエスの時代の宗教指導者たちやファリサイ派の指導者を、「わたしよりも前に来た者は皆、盗人(ぬすびと)であり、強盗(ごうとう)である」と、決めつけておられます。

 そして、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」と。

 ちなみに、牧者のこの羊飼いのイメージは、すでに旧約時代に詩編で次のように歌われています。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。

 主はわたしを青草(あおくさ)の原(はら)に休ませ

 憩いの水のほとりに伴い

 魂(たましい)を生き返らせてくださる。

 

 主は御名(みな)にふさわしく

 わたしを正しい道に導かれる。

 死の陰(かげ)の谷を行くときも

 わたしは災いをおそれない。

 あなたがわたしと共にいてくださる。

 あなたの鞭(むち)、あなたの杖(つえ)

 それがわたしを力づける。

 

 わたしを苦しめる者を前にしても

 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

 わたしの頭(あたま)に香油(こうゆ)を注ぎ

 わたしの杯(さかずき)を溢れさせてくださる。

 命ある限り

 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

 主の家にわたしは帰り

 生涯、そこにとどまるであろう(詩編23)。」と。

 また、イエスは、パンの奇跡に後、次のように宣言なさいました。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない(ヨハネ6:35)。」と、厳(おごそ)かに宣言なさいました。

 ですから、司祭と共に感謝の祭儀を行う度毎(たびごと)に、命のパンで満たされ、力づけられるからこそ、ミサによって派遣さるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において、「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために」来られた良い牧者であるイエスを証しすることが出来るよう共に祈りましょう。

 


 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230430.html