受難の主日(枝の主日)A年(23.4.2)

「マタイによる主イエス・キリストの受難」

   ただ今、それぞれの登場人物の役割を分担して朗読いたしました、マタイによるイエスの受難のドラマについて、解説してみましょう。

 まず、この受難劇は、あくまでも主人公のイエスのお言葉と行為とによって展開していると言えましょう。しかも、マタイは、完全な復活信仰の展望から受難のイエスを描こうとしているのではないでしょうか。

 ですから、今日の朗読箇所は、総督ピラトによる裁判の場面から始まっています。

 つまり、すでに、ユダヤ当局の最高法院において死刑の判決を受けられたイエスが、ローマ帝国の支配下にあったので、当然総督ピラトによってのみ、其の判決が有効になるので、ピラトの裁判にかけられねばならなかったのです。

 ですから、そこで早速、ピラトはイエスに、いとも短刀直入に尋問(じんもん)します。

 「お前がユダヤ人の王なのか。」と。

 それに対してイエスは、即答をさけ、「それは、あなたが言っていることです。」と、切り返されます。

 そこで、マルコは、ユダヤ当局へのイエスの対応を、次のように書き加えています。

「祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。」と。

 そこで、イエスの態度に苛立ったピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか。」と、追求します。

 そのときのイエスの態度を、マルコは説明します。

「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。」と。

 ついで、当時のしきたりを次のように説明します。

「ところで、祭りの度(たび)ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人解放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスかそれともメシアといわれるイエスか。』」と。

 このように、ピラトが群集に向かって確認したのは、実は、ピラトは、「人々がイエスを引き渡されたのは、ねたみのためだったと分かっていたからである。」と、コメントしています。

 丁度、そのときです、なんとピラトの妻から、緊急の伝言が届きます。

「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」と。

 しかし、すでに群衆によって扇動(せんどう)されていた「祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群集を説得した。」というのです。そこで、総督は、群衆に向かって確認します。

 「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか。」と。

 ところが、扇動されてすでに正気を失っている群衆は、「バラバを。」と叫びます。それに対して、ピラトは、念を押します。

「では、メシアといわれているイエスの方(ほう)は、どうしたらよいのか。」と。

 そこで、群集皆が叫びます。

 「十字架につけろ。」と。

 したがって、ピラトは裁判長としての責任から、イエスの罪状について確認します。

 「いったいどんな悪事(あくじ)を働いたというのか。」

 そこで、正気をとっくに失っている群衆は、ますます激しく叫び続けます。

 「十字架につけろ。」と。

 そこで、騒動が起こりそうな緊張状態だったので、ピラトはなんと群衆の前で手を洗うというまさに偽善的態度を示します。

「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」と、見事に責任を逃れます。

 そこで、ますます興奮した群衆は、叫びます。

 「その血の責任は、我々と子孫にある。」と。

 ですから、ピラトは早速バラバを釈放し、なんと、イエスを鞭打ってから、十字架刑に引き渡します。ちなみに、この十字架刑ですが、ローマ帝国における見せしめのための極刑にほかなりません。

 そこで、ユダヤ人たちは、イエスを再び総督官邸につれて行き、

「部隊の全員をイエスの周りに集め、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に乗せ、また、右手に葦(あし)の棒をもたせて、その前にひざまずき、侮辱して言った。『ユダヤ人の王、万歳(ばんざい)。』」と。

 その後(あと)、いよいよ屈辱に満ちた十字架の道行(みちゆき)が始まります。

 そして、すでに十字架の縦の杭(くい)が立てられているゴルゴダ「されこうべの場所」にたどり着かれると、そこで、また、人々はイエスをののしって、言ったのです。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして、十字架から降りて来い。」と。

「同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。

『他人は救ったのに、自分自身は救えない。イスラエルの王だ、今すぐ十字架から降りるがよい。そうすれば信じてやろう。』」と。

 暗闇が正午から午後三時まで、地を覆い、なんとイエスは沈黙を破って大声をあげ、それが唯一最後のお言葉となります。

「Eli, Eli, lema sabachthani? (わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)これを聞いて、『この人はエリヤを呼んでいる』という者もいた。・・・ほかの人々は言った。

『待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう。』

 しかし、イエスは再び大声で叫ばれた。

 その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け,地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」というのです。

 このように、イエスは、神へ「命の息を去らせて」従順な行為のうちに死ぬのです。つまり、受難のドラマのすべての要素が、神と、神がイエスに託した救いの使命とに対する敬虔な従順の精神をもって、よく知りながら自ら進んで十字架に立ち向かったイエスを生き生きと描いているのです。

 また、イエスの死の時、一連の恐ろしい徴(しるし)と共に大地が揺れ動かされたのは、神がこれのすべてを取り仕切っていることを暗に示しています。

 しかも、神殿の幕が裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開き、聖なる者たちが生き返り、エルサレムの多くの人たちに現れたことなどを、まさにまとめて報告することによって、父なる神のお答えとしていると言えましょう。

 わたしたちも、今日から始まる聖週間の典礼に忠実に参加することによって、イエスの受難と死、そして復活の神秘に共同体ぐるみで豊かに与ることができるように努めましょう。

 そして、この偉大な過越の神秘を人々に証しできるよう共に祈りましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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