四旬節第5主日・A年(23.3.26)

「わたしは復活であり命である」

 

わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと お前たちは生きる

(エゼキエル37:14)

   今日の第一朗読ですが、紀元前6世紀の捕囚時代に捕囚民のただ中で活躍した預言者エゼキエルの復活を暗示するダイナミックな預言にほかなりません。

 つまり、イスラエルの神への反逆が原因で、バビロニア帝国に滅ぼされ、王を初め主(おも)だった人々が、なんと三回に亘ってバビロンの近郊を流れるケバル河畔に強制移住させられるという占領政策にほかなりません。

 けれども、幸いなことにその流謫民(るたくみん)の中で、ただ一人預言者エゼキエルが、慰めと希望の預言活動を、続けていたのです。

 しかも、今日(きょう)の朗読箇所は、イスラエルの民が故国に帰ることができ、そこでなんと神の霊が吹き込まれ復活するという希望のメッセージと言えましょう。

「わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。

 また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。

 わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知ることになる。」と。

 なんと輝かしい希望に満ちたメッセージでしょうか。流謫(るたく)という屈辱に満ちた時代に、死から神の霊によってよみがえさせられるというまさに前代未聞の預言ではないでしょうか。

 ですから、今日の箇所に続く段落では、まさに黙示文学的なタッチで、イスラエルの民の霊的復活体験を、次のようにいとも幻想的に描写しています。

「すると主は仰せになった。『これらの骨に向かって預言し、告げなさい。枯れた骨よ、主のことばに耳を傾けよ。主なる神は、これらの骨に仰せになる。さあ、わたしはおまえたちの中に息を吹き込む。そうすると、おまえたちは生き返る。わたしはおまえたちに腱(けん)と肉をつけ、皮膚で覆う。わたしはおまえたちに息を与える。そうすれば生き返る。そのときおまえたちは知るであろう。わたしが主であることを。』」と。

 

キリストの霊を持たない者はキリストに属していません

(ローマ8:9b参照)

 次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが、ローマの教会への手紙で聖霊について大切な教えを説明している箇所と言えましょう。

 実は、すでに7章では、モーセの律法からの解放について教え、心の中の霊的戦いにおける律法の無力さを強調しています。

 次いで、今日の箇所の8章で、聖霊によるキリスト者の命と生き方について説明しているのではないでしょうか。

 ですから、霊の働きについて、次のように総括しています。

「神の霊があなたがたの内に宿っているので、あなた方は、肉ではなく霊の支配下にいます。」と。

 ここで言われている「神の霊」ですが、「聖霊」を、意味しています。

 また、「肉」ですが、「霊」と対比しているキーワードで、霊に導かれていない自己中心主義の人間を指していると言えましょう。

 ですから、「神の霊が宿っているので、肉ではなく霊の支配下にいることができる」と言うのです。

 しかも、「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。」

 従って、「キリスト・イエスに結ばれている者には、もはや死の宣告はありません。キリスト・イエスにある命をもたらす原理としての聖霊が、わたしを罪の原理から解放してくれたからです。」と。

 

終わりの日の復活の時に復活することは存じております

(ヨハネ11:214参照)

  最後に今日の福音ですが、福音記者ヨハネは、イエスの親しい友人ラザロが、死後四日もたっていたのに、イエスによって見事に蘇生(そせい)させられるという感動的なしるし(奇跡)を四幕のドラマとして語っています。

 

第一幕(11:1-16)ラザロの死

「そのとき、ラザロの姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。』と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』

 つまり、イエスが何者であるかがはっきりし、神であられることが分かるのは、まさに栄光の時なのです。そういう意味で神の子が栄光を受けると、宣言しているのです。

 さらに「この病気は死で終わるものではない」と言われ、死を超えた彼方の復活ということがここで伏線(ふくせん)として告げられています。

 しかも、「イエスの愛しておられる者」と、イエスのすべての業、活動の基本的なモチーフは愛であったのです。

 

第二幕(11:17-27)イエスは復活と命である

「マルタはイエスに言った。『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの弟は死ななかったでしょうに。』イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と言った。イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。・・・このことを信じるか。』マルタは言った。『はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じております。』

 

第三幕(11:28-37)イエス、涙を流す

「イエスは、はげしく感動し心を騒がせて、『彼をどこに葬りましたか』と尋ねた。・・・イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。

 

第四幕(11:38-44)イエス、ラザロを生き返らせる

 イエスが、『その石を取りのけなさい』と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、『主よ、四日もたっていますから、もう匂います』と言った。・・・人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。・・・』こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布(ぬの)で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた。

 このように、イエスが死に打ち勝ち、罪の支配、悪魔の支配を打ち破り、永遠の命の支配をもたらしたことが誤りなく理解される必要です。わたしたちも、このミサによってイエスに対する復活信仰を強めていただきましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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