四旬節第4主日・A年(23.3.19)

「あなたは人の子を信じるか」

   

 早速、今日の福音を集中的に解説してみましょう。

 今日の箇所は、ヨハネ福音書の9章1節から41節に亘って生まれつきの盲人が人の子即ちイエスによって癒されるといういとも感動的なドラマと言えましょう。

 ですから、第一幕から、第四幕まで、漢詩の起承転結(きしょうてんけつ)に見事に組み立てられています。

 まず、プロローグ(9:6-5)で、「罪とは何か」が、問題提起されます。

 ヨハネは、ユダヤ教における伝統的な罪の捉え方、つまり、罪の結果として禍(わざわ)いや身体(しんたい)に障害(しょうがい)が生じるというのです。

 ですから、弟子たちが、イエスに尋ねます。

「ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか、それとも両親ですか。」と。

 それに対して、イエスは、次のようにいとも明解にお答えになります。

「この人が罪を犯したのでもなく、この人の両親が罪を犯したのでもない。むしろ、神の業(わざ)がこの人のうちに現れるためである。」と。

 これは、まさに驚くべき宣言です。つまり、肉体的な障害(しょうがい)は、まさに神の業(わざ)がその人に現れるためであると、驚くべき主張にほかなりません。

 しかも、ヨハネは、奇跡の代わりに「しるし」という表現を用いていますので、イエスによってなされたすべての奇跡は、イエスにおいて起こった救いの出来事のしるしなのです。

 ですから、「神の業(わざ)が、この人にうちに現れるためである。」と。

 

第一幕(9:6-12)「盲人の癒し」

「イエスは地面に唾(つば)をし、唾(つば)で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアムー〔遣わされた者〕という意味―の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。・・・

 

第二幕(9:13-23)「安息日論争」

「人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。

 彼は言った。『あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。』人々が、『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は、『知りません』と答えた。」

 この段階で、彼は、「知りません」としか、答えられなかったのですが、まさにイエスに対する最初の信仰告白と言えるのではないでしょうか。

「ファリサイ派の人々の中には、『その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない』という者もいれば、『どうして罪のある者が、こんなしるしを行うことが出来るのだろうか』という者もいた。・・・そこで、人々は盲人であった人に再び言った。『目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。』彼は、『あの方は預言者です』と答えた。

 この答えこそ、彼のイエスにたいする第二の信仰告白と言えましょう。

 この後(あと)「ユダヤ人たちは、その人がかつては目が見えなかったのに、今は目が見えるようになったということを信じないで、遂に、目が見えるようになった当人の両親を呼び出して、こう尋ねた、『この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。』

 両親は答えて言った。『どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。・・・本人に聞いてください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。』両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたためである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公(おおやけ)に言い表す者がいれば、会堂から追放するとすでに決めていたのである。」

 

第三幕(9:24-34)「盲人の証言」

「さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。

『神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。』

 彼は答えた。『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。

 すると彼らは言った。『あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。』『なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。』・・・

 彼は答えて言った。『あの方がどこから来られたのか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心(みこころ)を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことはありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。』

 これこそ、第三の信仰告白と言えましょう。とにかく、ここで今度は、イエスをどう思うかという立場からでなく、イエスを罪人として認めさせようという前提での尋問にほかりません。

 とにかく、目をいやされた人は、イエスが誰であるのか徐々に正しい認識をもち、彼の主体性を確立していくと言えましょう。

 

第四幕(9:35-41)ファリサイ派の人々の罪

 ここでは、明らかに会堂を追放されたキリスト者にイエスが再び現れて彼らの信仰告白を確認する場面と理解されます。

 とにかく、当時、ユダヤ教から会堂追放の刑を受けることは社会的にもユダヤ人としての市民権を失うことで、ユダヤ人キリスト者にとっては致命的な事柄だったのです。

「イエスは彼が外(そと)に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。

 彼は答えて言った。『主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。』

 イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。』

 彼は、『主よ、信じます』と言って、ひざまずいた。」

 まさに、感動的な信仰告白ではありませんか。

 イエスを人間以上の方としてイエスを礼拝の対象にしており、「ひざまずく」という原語は、礼拝すると訳せる言葉にほかなりません。

 わたしたちも、ミサを共に捧げるたびごとに、イエスに対する信仰告白を再確認し、癒しの豊かな恵みに与(あずか)ることができるのです。

 ですから、信仰を生きるとは、日々、イエスに、祈りとみ言葉においてお会いし、そのキリストを、出会う人々に証しするのが、キリスト者の生き方の基本にほかなりません。

 しかも、この生き方こそ、まさに日々の回心の体験ではないでしょうか。それは、この世の価値観に迎合(げいごう)するのではなく、あくまでも忠実に福音の価値観に自分自身を切り変えていく姿勢転換ではないでしょうか。

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230319.html