年間第6主日・A年(22.2.12)

あなたがたの義が人々の義にまさっていなければ 天の国に入ることができない

 

主の知恵は豊かでありすべてを見通される(シラ15:18)

 今日(きょう)の第一朗読で、著者は、神からいただいている知恵のすばらしさについて、次のように強調しています。

「主の知恵は豊かであり、主の力は強く、すべてを見通される(知恵15:18参照)。」と。

 ちなみに、今日の第一朗読は、シラ書(集会の書)15章からの抜粋でありますが、著者は、シラ・エレアザルの子、エルサレムの人イエススで、当時のギリシャ化政策(ヘレニズム)によって宗教的危機に直面している同胞ユダヤ人たちの伝統的な信仰を強めるために、本書を書いたと言えましょう。

 ですから、冒頭で知恵についての基本的な説明を次のように、宣言しています。

「すべての知恵は主から出(い)で、永遠に主と共にある。・・・知恵は万物に先立って造られ、洞察する知性は永遠から造られた。だれに、知恵の根は示されたであろうか。だれが、その巧みな計りごとを知るであろうか。・・・主ご自身が、知恵を創造し、これを見、これを計り、それを、そのすべての業(わざ)の上にお注ぎになった。主はその賜物(たまもの)に応じて、すべての人に知恵を与え、主を愛する者に、これを惜しみなお与えになった(同上1:1-10参照)。」と。

 従って、グローバルな規模で、貨幣経済を偶像化し、格差によって貧しい国々を虐げている今日の世界において、今まで以上に福音に基づく政治と経済を発展させるために、まさに知恵に基づく福音的な価値観を確立し、福音そのものが、社会の隅々まで浸透して行くよう、日々、努力すべきではないでしょうか。

 しかも、それは、イエスの宣教の次のような第一声の具体的な生き方によって忠実に従うことと言えましょう。

「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて仰せになった。

 『時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音に全面的に委ねなさい(マルコ1:15参照。)』」と。

 

神が”霊“によってそのことを明らかに示してくださいました(一コリント2:10参照)

  次に、今日の第二朗読で、使徒パウロは、派閥争いが原因で分裂の危機に晒されているコリントの教会へ、次のように書き送りました。

「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。みな同じ主張をし、仲間割れなどせずに、同じ心、同じ思いでしっかりと団結してください。・・・

 十字架の教えは、滅びてしまう者にとって愚かしいことですが、救いの道を歩いているわたしたちにとっては神の力です。『わたしは知恵ある者を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする』と聖書に書きしるされています。どこに知恵ある人がいるというのですか。学者がどこにいるのですか。どこにこの代(よ)の論客がいるのですか。神はこの世の知恵を愚かなものとされたではありませんか(同上1:10-20。)」と。

 そして、今日の箇所で、この世の知恵でなく、神の知恵について次のように説明しています。

「わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」と。

 

兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける(マタイ5:22参照)

 最後に今日の福音ですが、山上の説教の前半の段落であります。

 そこで、取り上げられているテーマのいくつかについて解説してみます。まず、律法についての根本的な捉え方を、次のように強調しています。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためでなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画(いってんいっかく)も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そのように教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように人に教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」と。

 当時、確かにイエスと弟子たちの言動において、あたかも律法をないがしろにするようなことが多々ありました。

 ですから、ここでイエスは、はっきりと次のように断言します。

「律法や預言者を廃止するためではなく、むしろ完成するためである。」と。

 つまり、イエスの到来によって律法が完成される、すなわち、律法によって定められたすべての義を完成させようとするのです。

 ですから、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられるとき、ヨハネはそれを思いとどまらせようとします。そのとき、「イエスは仰せになった。『今は、止めないでほしい。このようになすべきことをすべて果たすのは、わたしたちにふさわしいことだから』。(同上3:15)」と。それが、イエスの使命であり目標なのであります(同上5:17参照)。

 ですから、イエスは律法がいかなるものであるかを、教えるだけでなく、自らの行動によって、律法を完成へと導くのであります。

 さらに、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と、念を押されます。

 つまり、律法の基礎であり要約である愛の行為が問題となっているのです。ですから、キリスト者は、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:14参照)」という新しい愛の掟を実践しなければ、イエスの弟子には決してなれないのであります。

 また、「あなたがたも聞いている通り、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」と。

 ここで言われている罪、すなわち、兄弟に対して腹を立てることも、罪になるという厳しさがあると言えましょう。

 また、次のように心の内面をも裁かれることを、強調しています。

「あなた方も聞いているとおり、『姦淫(かんいん)するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、すでに心の中でその女を犯したのである。」と。

 このように、罪は、外的な行為だけでなく、内的な行為つまり思いや、望みによっても犯すことになるのです。

 また、マタイは、別な文脈で「もし、片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐりだして捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま、火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい(同上18:9)。」と、躓(つまず)かせることの厳しい罰(ばつ)についても強調しています。

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230212.html