年間第5主日・A年(23.2.5)

「あなたがたの光を 人々の前に輝かせなさい」

 

あなたの光は曙(あけぼの)のように射し出でる(イザヤ58:8参照)

  今日の第一朗読で、第三イザヤ(紀元前538年から始まる捕囚からの帰還後に活躍)は、半世紀にわたる捕囚から故国に帰った混乱の時代に、イスラエルの民に向かって、主なる神が選ばれる真(まこと)の断食(だんじき)について、力強く、次のように預言しています。

「飢えた人にあなたのパンを裂き与え

 さまよう貧しい人を家に招き入れ

 裸の人に会えば衣(ころも)を着せかけ

 同胞に助けをおしまないこと。」と。

 つまり、モーセの律法に定められている唯一の断食(だんじき)ではなく、むしろ率先して愛の実践に励むことこそが、まさに神が選ばれる断食(だんじき)であると言うのです。

 それは、モーセが定めた、荒布(あらぬの)をまとい、灰を用いて哀悼や敵の侵略の脅威の時に助けを願うための断食(だんじき)ではなく、徹底した愛の実践が大切であるという神の切なる願いではないでしょうか。

「そうすれば、あなたの光は曙(あけぼの)のように射し出(い)

 あなたの傷は速やかにいやされる。

 飢えている人に心を配り

 苦しめられている人の願いを満たすなら

 あなたの光は、闇の中に輝き出(い)

 あなたを包む闇は、真昼(まひる)のようになる。」と。

 

 

”霊“と力の証明によるものでした(一コリント2:4参照)

  次に、使徒パウロは、今日の第二朗読で、コリントにおける彼の宣教活動の核心に触れる特長を、次の様に強調しています。

「そちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣(の)べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と。

 ちなみにこのコリントの教会ですが、使徒パウロが、第二回伝道旅行で訪れた時に創立されたのですが、彼が去ってからこの共同体には、派閥争いによる混乱が起こってしまったと言うのです。

 実は、このコリントの教会ですが、ユダヤ教から改宗したユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者たちによって構成されており、しかも国際的な性格を持つ共同体にユダヤ教の背景が強く存在していたようです。また、大多数が下層階級の出身であったと言うことです。

 ですから、パウロは自分の創立者として基本的なよりどころについて次のように強調しています。

「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」と。

 実は、パウロは、自分の使徒としての働きの原動力についても、次のように断言しています。

「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています(二コリント13:4)。」と。

 

 

あなたがたは地の塩、世の光である(マタイ5:13-14参照)

  最後に今日の福音ですが、山上の説教の「地の塩・世の光」についてのいとも感動的な場面を伝えています。

 まず、確認すべきことですが、聞き手に対して「あなたがた」と、つまり弟子たちに限定していると言えましょう。

 ですから、「あなたがたは地の塩である。」と断定しているのではないでしょうか。そして、その塩の役割を果たせなくなったときのことを、次のように厳しく強調しています。

「だが、塩に塩気(しおけ)がなくなれば、その塩は何によって塩味(しおあじ)がつけられよう。もはや、何の役にも立てず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と。

 ちなみに、マタイの文脈では、「地と世(13,14節)」とは、16節で言われている「人々全体」を、意味していると言えましょう。ですから、マタイによれば、弟子たちは、「立派な行い(16節)」のために、「塩・光」であるのです。

 しかも、この「立派な行い」は、弟子たちを指し示すものではなく、あくまで「天の父をあがめるようになる」ために他なりません。

 つまり、「地、世、人々」に対する弟子たちの働きが、三回にわたって強調されているのに続き、逆方向の動きつまり「あがめる」ことは、人々から弟子たちへと戻るのではなく、あくまでも「天の父」へと戻ることになると言うのです。

 ところで、愛弟子(まなでし)のヨハネによれば、最後の晩餐の席上、イエスが、弟子たちを派遣しますが、そのとき次のように命じておられます。

「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何(なん)でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かな実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛したように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。・・・わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。・・・あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うことはなんでも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である(ヨハネ15:7-17)。」と。

 ですから、聖パウロ六世教皇は、その使徒的勧告『福音宣教』で、教会は福音宣教のために存在していることを次のように強調しています。

「『わたしたちは、すべての人々に福音をのべ伝えることが教会の第一かつ本来の使命であることを、ここに再び確認します。』それは、今日、著(いちじる)しく変化しつつある社会では、命令かつ召命(しょうめい)です。教会はまさに福音を伝えるために存在しています(14項参照)。」と。

 このミサにおいてイエスに秘跡的にしっかりと結ばれ、その愛の絆を強められるわたしたちが、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会においてイエスの弟子として愛の実践に励むことによって、イエスを伝えていくことができよう共に祈りましょう。

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230205.html