年間第7主日・A年(23.2.19)

「敵を愛し 自分を迫害する者のために祈りなさい」

 

自分自身を愛するように 隣人を愛しなさい(レビ19:18参照)

  ちなみに、旧約聖書にある最初の五つの書物を、モーセ五書といいますが、今日(きょう)の第一朗読は、その三番目の書物レビ記19章からの抜粋であります。

 このレビ記ですが、選ばれた民イスラエルが、主なる神に倣(なら)って神聖な民となり、約束の乳と蜜の流れる土地に定住するのに相応(ふさわ)しい民となるために、忠実に守らなければならない生活上の規律について詳しく述べられています。

 しかも、この19章は、日々の生活で守るべき掟(おきて)について詳しく説明しています。中でも、今日の箇所で、隣人愛について次のように具体的に定められています。

「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは、主である。」と。

 実は、ユダヤ人の間では、この19章は、モーセ五書(ごしょ)の中心、律法の「神髄」であると伝えられているとのことです。

 つまり、モーセの十戒のあらましのようなもので、まさに、旧約聖書における最高の社会道徳基準、すなわち「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という掟を指し示していると言えましょう。

 ここで、あえて説明を加えるならば、この掟はあくまでもイスラエルという民の同胞に限定されていることであります。つまり、隣人とは同胞のイスラエル人のことにほかなりません。

 ですから、山上の説教で、イエスが、いみじくも断言なさっているように、「あなた方も聞いているとおり、『あなたの隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしはあなた方に言っておく。あなた方は敵を愛し、あなた方を迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:43-44)」と、まさに同胞という枠をすっかり取り払ったのが、イエスの愛の掟に他なりません。

 つまり、旧約時代においては、この隣人愛は、同胞愛に限定されていたのを、イエスが、

「わたしは新しい掟をあなた方に与える。

 互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、

 あなた方も互いに愛し合いなさい。

 互いに愛し合うなら、

 それによって人はみな、

 あなた方がわたしの弟子であることを、

 認めるようになる(ヨハネ13:34-35)」という新しい掟によって、その同胞という枠を決定的に取り払われたのであります。

 

だれでも人間を誇ってはなりません(一コリント3:21参照)

 次に、今日の第二朗読は、使徒パウロが、自分が創立したコリントの教会において、派閥争いが原因で分裂騒ぎが起きていたので、その解決のためにしたためた手紙にほかなりません。

 ですから、教会がキリストの体として一致団結するために、核心に触れる勧告を、次のように切々と訴えています。

「だれでも自分を欺(あざむ)いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵ある者となるために愚かな者となりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。

 『神は、知恵ある者たちを

   その悪賢(わるがしこ)によって捕らえられる』

  と書いてあり、また、

  『主は知っておられる、

   知恵のある者たちの論議がむなしいことを』

  とも書いてあります。ですから、誰でも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたは、キリストのもの、キリストは神のものなのです。」と。

 まさに、派閥争いの原因が、「あなたがたはおのおの、『わたしはパウロの者』、『わたしはアポロの者』・・・と言っていて(同上1:12)」、人間に過ぎない教師を誇っていることを指摘しています。ですから、パウロは、むしろ、教師たちは、コリントの信者のための者、さらに、神に造られたすべての、生や死さえも彼らのものであると言うのです。

 けれども、「すべてがコリントの信者のものだ」とは、ひとえに彼らがキリストのものであり、また、そのキリストは神のものであればこそ言えるのであります。

 

悪人に手向かってはならない(マタイ5:39参照)

 最後に、今日の福音で、イエスが旧約における隣人愛の掟に対して、御自分は新約の新しい掟を命じることを次のように強調しています。

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。・・・「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。・・・だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と。

 まず、イエスは、復讐を禁じられます。つまり、悪をもって悪に報いてはいけないのです。けれども、不当な害を受けたとき、これに対して正統な仕方で抵抗し、防衛することは、禁じられていないのです。

 ちなみに、この箇所を、英国に留学中のマハトマ・ガンディが、たまたま目にしたときの感動を次のように伝えています。

「本当にわたしを、受動的抵抗の正しさと価値に目覚めさせてくれたのは『新約聖書』でした。たとえば『悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けない。』といったイエスのお言葉を読んで、わたしは嬉しくてたまりませんでした。」と。

 この彼の体験こそが、彼の「非暴力・不服従運動」の原点になったのではないでしょうか。だから、武力ではなく徹底した抵抗によって、英国からの独立を果たしたと言えましょう。

 また、最後に言われている「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」ですが、ルカの並行箇所では、「あなたがたの父が憐れみ深いようにあなた方も憐れみ深い者となりなさい(ルカ6:36)。」と、言い方を変えています。

 今週もまた、派遣されるそれぞれの家庭、学校、職場そして地域社会において愛の実践(じっせん)に励む(はげ)ことができるように共に祈りましょう。

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230219.html