年間第4主日・A年(23.1.29)

「心の貧しい人は幸いである

                        天の国はその人たちのものである」

 

イスラエルの残りの者は 不正を行わず偽りを語らない

(ゼファニヤ2:13参照)

    今日の第一朗読で、預言者ゼファニヤは、救いの歴史におけるイスラエルの「残りの者」の大切な使命について預言しています。

 この小預言書ですが、紀元前7世紀後半、ユダ王国のヨシア王(640-609BC)の時代に活躍した預言者ゼファニヤが、無気力と不信仰に陥っているイスラエルの民への警告を預言したと言えましょう。

 すなわち、真(まこと)の信仰は、「貧しい者」や「謙遜な者」そして「残りの者」の中にあると言うのです。

 実は、ここで言われている「残りの者」という言い回しですが、旧約聖書においては、大切な神学概念であり、特に信仰と希望の根本をなす内容に他なりません。

 例えば創世記に遡(さかのぼ)って、「洪水物語」で唯一救いへ導かれるノア一族の話もそれに関連している思想ですが、古代戦争において皆殺しなどの体験から「生き残る」という概念が宗教的な意味に発展したのではないでしょうか。

 ですから、神の審判によって、「主の日」に神の民の全体的な滅びが述べられますが、一部の正しい者が、ただ神の憐れみによって審判を免れ救われ、「残りの者」を形成するという希望の教えに他なりません。

 実は、この「残りの者」について一番多く預言しているのが、イザヤであり、神は民の罪のために罰を与えるが、その中から少数を選び、イスラエルを必ず再建(さいけん)すると主張しています。

 そこで、ゼファニヤは、今日の箇所で次のように預言しています。

「主の怒りの日に

 あるいは、身を守られるであろう。

 わたしはお前の中に

 苦しめられ、卑しめられた民を残す。

 イスラエルの残りの者は

 不正を行わず、偽りを語らない。・・・

 彼らは養われて憩い

 彼らを脅かす者はない。」と。

 

だれ一人神の前で誇ることがないように

(一コリント1:29参照)

  次に、使徒パウロは、今日の第二朗読で、コリントの教会の信徒たちに、共同体に一致をとりもどすために信仰の原点に立ち帰ることが出来る、神の選びの特徴を、次のように強調しています。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」と。

 ちなみに、このコリントの教会ですが、ギリシャの当時、商業で最も栄え、道徳的には退廃したコリントの町に、パウロの第二伝道旅行中に創立しています。

 ところが、パウロが去ってから、派閥争いのため共同体は分裂の危機に瀕(ひん)したので、解決についての質問状をパウロに送り、それに対してしたためたのが、この手紙に他なりません。

 ですから、内容は、まさに信仰共同体の一致の本質についての大切な助言と言えましょう。

 今日の箇所の後半は、別の訳で、次のように、締めくくることができます。

「神のおかげで、あなたがたはキリスト・イエスと一致しているのです。このキリスト・イエスは、わたしたちにとって神からの知恵、つまり、わたしたちを神との正しい関係にある者とし、神のものとさせ、また、罪から贖(あがな)う方となられたのです。『誇る人は主において誇れ』と書かれているとおりになるためでした。」

 

心の貧しい人々は幸いである 天の国はその人たちのもの

(マタイ5:3参照)

  最後に、今日の福音で、マタイは、「山上の説教」の最初の箇所を、次のように伝えています。

 まず、場面を、説明しています。

「そのとき、イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」と。

 まず、場所を「山」に設定するのは、聖書では、山は、神との出会いの最も相応(ふさわ)しい場所というイメージがあるからにほかなりません。

 また、「腰を下ろされ」「口を開き」と、まさに、これから語られる教えが重要であることを強調していると言えましょう。

 そして、開口一番(かいこういちばん)

「心の貧しい人々は、幸いである、

  天の国はその人たちのものである。

  悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」と、宣言します。

 最初の「心の貧しい人」ですが、ギリシャ語からの直訳では、「霊において貧しい人」となり、「自分の貧しさを知る人」とも訳すことができます。

 つまり、人を幸福にするものは、自分の力で手に入れられるこの世の富ではなく、祈りによって神から与えられる恵みだけであります。

 ですから、自分の本当の貧しさを知らない人は、神に頼ろうとしないので、恵みも与えられないことになります。

 実は、このまさに霊的態度は、旧約聖書では「アナウィム」の態度を反映していると言えましょう。このヘブライ語の「アナウィム」ですが、虐(しいた)げられている者、苦しむ者、あわれな者、貧しい者、柔和な者、へりくだる者、弱い者などと訳されています。 

   ですから、今日の第一朗読で言われている「残りの者」とも、相通じるのではないでしょうか。

 また、これらの意味を含んだ「貧しさ」ですが、信仰深く、神以外に頼るべきものを持たないので、まさにすべてを神にゆだねることが出来るのです。

 次に「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」ですが、使徒パウロが、ローマの信徒への手紙を「平和の神があなた方一同とともに。アーメン。」(ローマ15:339)と締めくくっているように、また、「実に、キリスト・イエスご自身こそ、わたしたちの平和である(エフェソ2:14)」ので、わたしたちの信仰を生涯かけて全うすることが、この地上に真(まこと)の平和をもたらすことになるのではないでしょうか。

 このミサで、司祭は「感謝の祭儀を終ります。平和のうちにいきましょう。日々の生活になかで主の栄光をあらわすために。」と、派遣されるそれぞれの場で平和であるキリストを伝えて行くことが出来るように共に祈りましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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