年間第3主日・A年(23.1.22)

「二人はすぐに網を捨てて従った」

 

異邦人のガリラヤは栄光を受ける(イザヤ8:23c参照)

   今日の第一朗読で、メシア預言者イザヤは、「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と、平和の到来をいとも大胆に預言しています。

 実は、預言者イザヤが活躍した紀元前八世紀後半ですが、ユダ王国は、軍事大国アッシリアとエジプトとに挟まれた試練の時代でした。

 そして、ついに紀元前733年には、シリアとエフライム(北王国)が同盟を結び、エルサレムを包囲し、シリア・エフライム戦争が勃発(ぼっぱつ)したのであります。

 そのとき、イザヤは戦争準備を始めたアハズ王に「落ち着きなさい。神を信じなければ、危機に立ち向かうことはできない(イザヤ7.9参照)」と励ましながら必ず平和が訪れることを、力強く次のように預言しました。

「あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり

 人々はみ前に喜び祝った。

 刈り入れの時を祝うように

 戦利品を分け合って楽しむように。

 彼らの負う軛(くびき)、肩を打つ杖、虐げる者の鞭(むち)

 あなたはミディアンの日のように折ってくださった。」と。

 ですから、とうとう政治的にも宗教的にもアッシリアの属国になってしまったユダ王国ですが、力強いメシア預言に期待をかけさせます。

 つまり、将来、神が遣わす理想の王メシアが、まさに終わりのない平和をもたらすのですが、それは軍事力に基づく平和ではありません。

 また、略奪民ミディアンを撃退した士師ギディオンが、神の働きによって勝利を手にした「ミディアンの日」のように、神への信頼がもたらす平和が必ず訪れるというのです。

 ちなみにこのイザヤの預言は、主の降誕の夜半のミサで朗読されます。

 

回心せよ神の国は近づいた(マタイ4:17参照)

 次に、今日の福音でマタイは、今日の第一朗読のイザヤの預言を引用しながら、イエスが、初めてカファルナウムで宣教活動を始められたことを、次のように報告しています。

「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て、住まわれた。それは、預言者イザヤを通していわれていたことが実現するためであった。」と。

 さらに、宣教の第一声と最初の弟子たちの召命を、次のように伝えています。

「そのときから、イエスは、『回心せよ。神の国は近づいた』と言って、宣(の)べ伝え始められた。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』といわれた。二人はすぐに網を捨てて従った。」と。

 まず、「回心せよ。神の国は近づいた。」ですが、お手許(てもと)にある「聖書と典礼」では、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」となっています。

 実は、カトリック教会も伝統的にプロテスタントと同じく、ギリシャ語の「metanoia」「悔い改める」と訳して来ました。

 けれども、このメタノイアというギリシャ語の本来の意味が、物の見方、考え方を、福音を基準に根本的に変えていく体験であることから、回す心と表記するようになりました。ですから、典礼においても、「回心のいのり」と言っています。

 ちなみに、マルコの並行箇所では、「時は満ち、神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい(同上1:14)。」となっています。

 ですから、「天の国」とは、マタイだけの言い方と言えましょう。

 ところで、この場面での「回心」についてですが、弟子たちの体験で明らかのように、イエスの弟子になるためには、それまでの生き方を根本的に変えて、漁師から弟子になるために、「網を捨てて従った。」ように、まず、自分自身を捨てるつまりキリストに従うために自分自身に死ぬ、すなわち全面的に否定してこそ、新たに弟子として生き始めることが出来るのではないでしょうか。

 ですから、イエスは弟子たちに向かって次のように命じておられます。

「わたしについて来たい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る(マタイ16:24b-25)。」と。

 ですから、最初の四人の弟子たちの召命の場面を、次のように伝えています。

「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人に兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、船と父親とを残してイエスに従った。」と。

 この場面で明らかなように、イエスの弟子になるという体験とは、まずイエスが「御覧になり」、そして、「お呼びなり」だから「イエスに従った」ことにほかなりません。

 けれども、この体験は、弟子たちにだけに限定されるのではなく実は、すべてのキリスト者の基本的体験と言えるのではないでしょうか。

 ちなみに、先週の第二朗読で、パウロはその手紙の冒頭で、次の様に宣言しています。

「すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人とともに、イエス・キリストによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ(一コリント1:2)」と、「呼ぶ」という言葉を強調しているのは、キリストの弟子になるために「呼ばれた」という体験を思い起こさせようとしていると言えましょう。

 しかも、この事実を、より鮮明にするのが、「召された」という言い回しで、「呼ぶ」とうことばから創られています。

 ですから、すべてのキリスト者は、父なる神とイエスから、「福音を伝えるために呼び出されている」ことに、ほかなりません。

 ちなみに、ガクタン司教様が、年頭書簡で強調されているように、わたしたちは「家族になりましょう。」と、つまり、教区と小教区は信者の家族を土台にして成り立っているのです。

 しかも、その家庭こそが、宣教共同体にならなければならないことは、聖ヨハネ・パウロ二世教皇が、次のように強調しています。

「キリスト者の家庭で福音を受け入れ信仰を深めるにつれて、福音を告げる共同体となります。『家庭は、教会のように、福音が伝えられる場であり、さらにそこから福音が広まって行く場でもなければなりません(『家庭―愛といのちのきずな』55項)。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230122.html