年間第2主日・A年(23.1.15)

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」

 

ヤコブを御(み)もとに立ち帰らせイスラエルを集める

(イザヤ49:5d参照)

 

 今日の第一朗読で、第二イザヤは、「主の僕(しもべ)の歌第二」で、自分の捕囚民に対する役割を、次のように強調しています。

「今や、主は言われる。ヤコブを御(み)もとに立ち帰らせ 

 イスラエルを集めるために 

 母の胎(たい)にあったわたしを 

 御自分の僕(しもべ)として形づくられた主は」と。

 ちなみに、第二イザヤ(40-55章)は、特別な使命を担(にな)った一人の人物を、四つの歌で描いています。それは「主の僕(しもべ)の歌」と呼ばれ、イスラエルの救いと捕囚からの解放を、自らの苦難と死とによって成し遂げる人物にまつわる歌であります。

 つまり、彼が受けた侮辱(ぶじょく)と苦しみによって、イスラエルの罪の赦しと救いを獲得する使命を担(にな)っているのです。

 しかも、このような使命を担うために、「母の胎にあったわたしを御自分の僕(しもべ)として形づくられた主」というくだりには、彼の強い決意が表されていると言えましょう。

 ですから、この「主の僕(しもべ)」こそ、十字架の生贄(いけにえ)によって人類の救い主となられたイエスのお姿を先取りしているのではないでしょうか。

 ここで言われている「僕(しもべ)ですが、基本的には「他人のために働く者」を意味しています。

 したがって、イスラエルは神の僕(しもべ)であるので、神の支えを期待できますが、一方では、まさに神のために働く義務をも担っているのです。ですから、

「主は、こう言われる。わたしはあなたを僕(しもべ)として 

 ヤコブの諸部族(しょぶぞく)を立ち上がらせ

 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし 

 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」と。

 ですから、ここで言われている「僕(しもべ)は、イスラエルの民ではなく、その中の一個人であり、国々の光となり、神の救いを運ぶという理想のイスラエルを体現する一個人であり、同時にイスラエルの民を「僕(しもべ)へと立ち帰らせる個人であると言えましょう。

 

 

キリスト・イエスによって召されて聖なる者とされた人々

(一コリント1:2参照)

 

 次に、今日の第二朗読で、使徒パウロは、コリントの教会の信徒に宛てた手紙において、「神の御心(みこころ)によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから」と、自己紹介しています。

 実は、この教会を、彼の第二宣教旅行の際に創立したのですが、彼が去った後(あと)、この教会は、派閥争いのため分裂騒ぎが起こり、自分たちを「知恵のある者」と誇る者が現れ、混乱が生じたと言うのです。

 ですから、このコリントの教会からこの深刻な問題についての質問状がパウロに送られたので、この手紙でそれらに答えているのです。

 とにかく、まず、コリントの教会を「神の教会、聖なる者とされた人々」と、呼んでいます

 ここで言われている「教会」とは、ギリシャ語では「呼び出す」からつくられた言葉になっています。

 また、「聖なる者」とは、ひたすら神に仕えるようにと呼び出された人々を表しています。

 ですから、コリントの教会の信者たちこそ、「神に仕えるために呼び出され、神のものとされた人々」に他なりません。

 さらに、彼は、すべてのキリスト者に向けて「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めている人」と呼び掛けていますが、「主イエスの名を呼び求める人」とは、イエスとの具体的な関わりを日々生きる者を意味していると言えましょう。

 また、パウロは、手紙の冒頭での挨拶で「呼ぶ」という言葉を強調しているのは、「呼ばれた」という恵みの体験を思い起こさせようとしているのではないでしょうか。

 しかも、この事実を、より鮮明にするのが、「召された」という言い回しで、「呼ぶ」という言葉からつくられています。

 ですから、すべてのキリスト者は、神と主イエスから「呼ばれた者」に他なりません。

 つまり、私たちは、神と主イエスから「福音を伝えるために呼び出されている」と言えましょう。

 ちなみに、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、次のように呼びかけておられます。

「神のことばには、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは、新しい土地へ出向いていくようにという呼びかけを受け入れました(創世12:1-3)。モーセも、『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』(出エジプト3:10)という神の呼び掛けを聞いて、民を約束の地に導きました(出エジプト3:17)。・・・今日(きょう)、イエスの命じる『行きなさい』というお言葉は、教会の宣教のつねに新たにされる現場とチャレンジを示しています。・・・私たち皆が、その呼びかけにこたえるよう呼ばれています。つまり、自分にとって快適な場所から出て行って、福音の光を必要としている隅(すみ)に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気をもつよう呼ばれているのです(同上20項)。」と。

 

 

その人が聖霊によって洗礼を授ける人(ヨハネ1:33b参照)

   

   最後に今日の福音は、洗礼者ヨハネが、近づいてこられるイエスを人々に紹介する場面を伝えています。

 まず、イエスが、「世の罪を取り除く神の小羊」であると宣言します。

 この「神の小羊」という称号(しょうごう)には、人々の罪を背負って苦しんで死ぬ、「主の僕(しもべ)」、過越の小羊(出エジプト12章)、そして世の終わり(終末)に現れて世の悪を裁く「終末的な小羊」(黙示文学)というユダヤの伝統を踏まえたイメージが込められていると言えましょう。

 そして、「神の小羊」に出会ったヨハネは、イエスこそ彼が「わたしの後から一人の人が来られる」と予告していた人であり、「わたしよりも先におられた」方であることを悟ります。

 この「先に」ですが、時間的な誕生の早さ以上に決定的な違い、すなわち天地創造以前からのイエスの「先在(せんざい)を意味しています。

 ですから、ヨハネは、「この方を知らなかった」のですが、「神の小羊」に出会った今は、自分が水で洗礼を授けていたのは、この方が来られるための準備だったと確認しています。ちなみに、ここでいわれている「知る」ですが、まさにイエスとの具体的な交わりに入ることを表しています。

 このミサでイエスとの秘跡的な交わりを深めたわたしたちが、派遣されるそれぞれの場で、神の小羊を伝えて行くことが出来るよう共に祈りましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2023/st230115.html