待降節第4主日・A年(22.12.18)

おとめが身ごもって男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ

 

主なるあなたの神にしるしを求めよ(イザヤ7:11a参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、イザヤ書7章からの抜粋であります。

 ちなみに、この代表的メシア預言者であるイザヤが、活躍したのは、紀元前8世紀のユダ王国に遡(さかのぼ)りますが、12代目の王アハズの時代で、彼が20歳で即位したときは、当時のパレスティナは、多数の小国家に分裂しており、733年には、北イスラエルはシリアと他の国々を誘って反アッシリア同盟を結成しようとアハズ王にも呼び掛けたと言うのです。

 ところが、アハズ王がこれを拒んだので、エルサレムは、彼らの軍隊に包囲されるというシリア・アッシリア戦争が勃発したのであります。

 その時、預言者は、王に進言(しんげん)したと言うのです。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。・・・信じなければ、あなたがたは確かにされない(同上7:4,9)。」と。

 そして、今日の箇所に続きます。

 「〔その日、〕主はアハズに向かって言われた。『主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く隠府(よみ)の方(ほう)に、あるいは高く天の方(ほう)に。』

 しかし、アハズは言った。『わたしは求めない。主を試すようなことはしない。』イザヤは言った。『ダビデの家よ、聞け。あなたは人間に、もどかしい思いをさせる(人間を煩わす)だけでは足りず わたしの神にも、もどかしい思い(神までも煩わせる)をさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自(おんみずか)らあなたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」と。

 ここで言われている「しるし」ですが、敵の軍隊に包囲されている首都エルサレムとダビデ王朝の両方に対するまさに救いのしるしであると同時に、侵略者シリア、エフライムだけでなく、ユダの地にも迫っている荒廃のしるしと言えましょう。

 しかも、生まれるであろう、嬰児(みどりご)にインマヌエルと名付けるという預言的しるしにほかなりません。

 ですから、このしるしは、マタイがその福音書においてまさにメシアの到来の預言に発展させています。

 

イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです(ローマ1:6)

  次に、今日の第二朗読は、使徒パウロがローマの教会宛てにしたためた手紙1章で自己紹介し、その宛先のローマの信徒を「神に愛されて、召されて聖なる者となったローマの人たちへ。」と、美しく表現しています。

 ここで言われている「神に愛されて、召されて聖なる者となった」ですが、「聖なる者」とは、ギリシャ語からの直訳で、「神のものとなった者」が、もともとの意味と言えましょう。

 ちなみに、「聖」という概念ですが、旧約聖書では神にささげられていること、神のため、またその御業(みわざ)のために特に選ばれ、他のものとは別にしておかれることを意味します。しかも、新約聖書では、人は、内にとどまっておられる聖霊によって聖とされる(同上8:9,27参照)のであります。

 ここで、まず、初めにパウロは、自分自身のことと福音について次のように説明しています。

「キリスト・イエスの僕(しもべ)、神の福音のため選び出され、召されて使徒となったパウロから、この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子(おんこ)に関するものです。御子(おんこ)は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者のなかからの復活によって力ある神の子と定められたのです。」と。

 まず「神の福音」ですが、福音そのものであるキリストによって成就(じょうじゅ)された、救いの歴史の三つ段階を述べたものと言えましょう。

 即ち、(一)キリスト誕生以前、「神がすでに聖書の中で預言者を通して約束されたもの」の段階(2節)、

 (二)「肉によればダビデの子孫から生まれた」段階(3節)。

 (三)「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって神の子と定められた」段階です。

 ちなみに、第二段階で言われている「肉によれば」ですが、「人としては」とも訳せる言い回しであり、4節の「聖なる霊によれば」に、相対する表現で、ローマ書においては、「霊」や「力」に対するもので、苦しみ、そしていつかは死ぬ人間の弱さを示しています。

 また、ここで念を押されている「異邦人を信仰による従順へと導くため」ですが、第二バチカン公会議の『神の啓示に関する教義憲章』において、次の様に説明されています。

「啓示(けいじ)する神に対しては、『信仰の従順』を示さなければならない。つまり、人間は『啓示(けいじ)する神に対して、知性と意志の全(まった)き服従』を示すことにより、また、神から与えられた啓示(けいじ)に対して自ら進んで同意し、自由に自分をすべて委ねる(5項参照)。」と。

 

主が預言者を通して言われていたことが実現するため(マタイ1:22参照)

 最後に今日の福音ですが、マタイが伝えるヨセフが、イエスの父親としての資格を確認される場面であります。

 まず、イエスの誕生の次第を、次のように簡潔に報告しています。

「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」と。

 実は、マタイはキリストの系図を述べている箇所で、「ヤコブはマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアから生まれた(同上1:16参照)。」と述べて、ヨセフがイエスの生みの親ではないことを確認しているにもかかわらず、ヨセフが系図上イエスの父親であることを次のように説明します。

「主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によってやどったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。』」と。

 とにかく、マタイは、ダビデの子孫であるヨセフが妻マリアから生まれる子の父親としての資格を持つことによって、この子こそ約束されたメシアで、ダビデの子孫から生まれるという預言を成就することを、次のように明らかにしています。

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々共におられる』という意味である。

 実は、この「神は我々と共におられる」という啓示は、すでにシナイ山でモーセに、主なる神がご自分を、「わたしはある。わたしはあると言う者だ(出エジプト14:3参照)。」という宣言にそのルーツがあると言えましょう。

 つまり、父なる神はどんな時にも、どんな所でも、私たちのうちに、最も相応しいあり方でイエスと聖霊と共にいて下さるのです。アーメン。

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

 

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st221218.html