待降節第3主日・A年(22.12.11)

「貧しい人は福音を告げ知らされている」

 

神は来てあなたたちを救われる(イザヤ35:4e参照)

  待降節第3主日は、「喜び」がテーマになっているので、待降節の三番目のろうそくの色を、他の三本とは違う喜びの色であるバラ色にし、祭服もバラ色を着る伝統があります。

 それでは、早速、今日の第一朗読ですが、イザヤ書35章(第一イザヤ)からの抜粋であります。

 この第一イザヤに属する章(1-39章)は、紀元前8世紀にユダ王国で活躍した代表的メシア預言者イザヤが、シリア・エフライム戦争を背景にまさに激動の時代に神によるイスラエルの救いを力強く預言しなければならなかった箇所と言えましょう。

 ですから、今日の後半の箇所で、特に新しい出エジプトになぞらえることが出来る捕囚からの帰還をも預言しております。

「荒れ野よ、

 荒れ地よ、喜び躍れ

 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

 野ばらの花を一面に咲かせよ。

 ・・・

 心おののく人々に言え。

『雄々しくあれ、恐れるな。

 見よ、あなたたちの神を。

 敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

 神は来て、あなたたちを救われる。』」と。

 次に、今日の福音で朗読されたマタイによる福音書で引用された、特に身体的障害が癒されるイメージで、次のように美しく預言しております。

「そのとき、見えない人の目が開き

 聞こえない人の耳が開く。

 その時、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。

 口の利けなかった人が喜び歌う。」と。

 続いて、新しい出エジプトのイメージで、次のように捕囚からの帰還を預言しています。

「主の贖(あがな)われた人々は帰って来る。

 とこしえの喜びを先頭に立てて

 喜び歌いつつシオンに帰り着く。

 喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。」と。

 ここで言われている「シオン」ですが、聖なる都(みやこ)エルサレムの東側にある神殿のある丘の名称ですが、主の都(みやこ)という性格があり、新約では天における神の都(みやこ)として象徴的に用いられています。

 ちなみに、この新しい出エジプトとしての捕囚からの帰還の預言は、特に第二(40-55章)、第三イザヤ(56-66章)で宣言される預言であります。

 

主が来られるときまで忍耐しなさい(ヤコブ5:7a参照)

  次に第二朗読ですが、ヤコブの手紙5章からの抜粋であります。

 この手紙の著者は、イエスの兄弟であるヤコブと考えられますが、エルサレムの司教として、62年に殉教(じゅんきょう)しています。

 しかも、この手紙をしたためたのは、ユダヤ人キリスト教会の中心であったエルサレムにおいてではないでしょうか。

 実は、今日に箇所は、この手紙の最後の章であり、まさに結びの勧告(かんこく)にほかなりません。ですから、次のように勧めています。

「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。・・・主が来られる時が迫っているからです。・・・裁く方が戸口に立っておられます。兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。」と。

 ここで言われている「主が来られるとき」ですが、栄光に輝く審判者(しんぱんしゃ)としてのキリストの再臨(さいりん)を指しています。

 その時、キリストは悪人を罰し、善人を永遠のいのちにあずからせるのです。その荘厳(そうごん)な場面は、マタイ福音書で、次のように描かれています。

「その時、王は自分の右側の者に言う、『わたしの父に祝福されている者たち、さあ、世の初めからあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい(マタイ25:34参照)。』」と。

 

天の国で最も小さな者が洗礼者ヨハネよりも偉大である(マタイ11:11c参照)

 最後に今日の福音ですが、マタイが伝える獄中の洗礼者ヨハネが、その弟子を遣わしイエスが来るべきメシアであるのかを、確認する場面であります。

「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。』」と。

 ここで言われている、「来るべき方」とは、メシアの尊称(そんしょう)にほかなりません。

 では、なぜイエスがどなたであるかを知っていたはずのヨハネが、弟子たちを遣わして、イエスがメシアであるのかを確かめさせたのでしょうか。

 恐らく、弟子たちにもイエスが誰であるのかを確信してもらいたかったのではないでしょうか。

 とにかく、イエスは、今日の第一朗読を背景にしたすばらしいお答えをなさいます。

「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」と。

 まさにイスラエルの民が待ち望んでいたことが、いまやご自分によって実現しつつあることを告げられたのです。それは、神の国が、目に見える形で、人間の体の病気や障害や社会秩序の回復までをも含む、まさに全人間的な救いにほかならないからです。

 ですから、「目の見えない人が見え」とは、視覚障害が癒されるだけでなく、むしろ、神の前での人間の根元的な姿の変換を象徴していると言えましょう。

 つまり、盲目(もうもく)は人間が自らの罪のゆえに自分の歩むべき道を見失っている状態を表し、その回復とはまさに人間が神への道に立ち帰ることを象徴しています。

 また、「足の不自由な人が歩き」も、罪のため正しい歩みにくじけてしまった状態から、癒しによって罪人が神のもとに立ち返る力を与えられることを象徴しているのではないでしょうか。

 さらに、最後の「貧しい人は福音を告げ知らされている。」の貧しい人ですが、単に物資的に貧しいだけでなく、病気や体の障害などによって虐(しいた)げられ搾取(さくしゅ)されている人々の総称と言えましょう。

 また、締めくくりで宣言されている「天の国で最も小さな者でも、洗礼者ヨハネよりも偉大である。」を、「神の国で最も小さな者が、洗礼者ヨハネよりも偉大である。」と言い換えることができるのではないでしょうか。

 

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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