王であるキリスト(22.11.20)

「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるとき」

 

 その十字架の血によって平和を打ち立て(コロサイ1:20参照)

  早速、今日の第二朗読ですが、使徒パウロのコロサイの教会に宛てた手紙1章からの抜粋(ばっすい)であります。

 ちなみに、古代都市コロサイですが、小アジア半島のフルギア地方にある裕福な大都市で、パウロの時代には、大勢のユダヤ人が住んでいたのです。

 この手紙によれば、コロサイの信者たちは、まだ、一度もパウロには会ったことがないということですが。

 実は、この手紙をしたためなければならなかったのは、獄中のパウロが、コロサイの人々を信仰に導いたエパフラスから、誤った教えが彼らの間に広められているという報告を受けたからに他なりません。

 ですから、この手紙の冒頭で、次のような宇宙の主、キリストをたたえる讃美歌を伝える必要があったと言えましょう。

 「御子(おんこ)は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物(ばんぶつ)は御子(おんこ)によって造られたからです。・・・

 また、御子(おんこ)はその体である教会の頭(かしら)です。御子(おんこ)は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心(みこころ)のままに、満ちあふれるものをあますところなく御子(おんこ)の内(うち)に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子(おんこ)によって、ご自分と和解させられました。」と。

 この讃美歌は、本書簡がしたためられる以前から、すでにコロサイの教会や、恐らくその近隣の教会でも歌われていたのではないでしょうか。

 ちなみに、この最後のくだり、つまり「その十字架の血によって平和を打ち立て」ですが、実は、使徒パウロのエフェソの教会に宛てた手紙でキリストこそ、わたしたちの平和であることを、次のように宣言しています。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げで平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(エフェソ2:11-16参照)。」と。

 いずれにしても、王であるキリストが、この地上に真(まこと)の平和を十字架の生贄(いけにえ)によってこそ実現なさるという宣言であります。

 

今日わたしと一緒に楽園にいる(ルカ23:43参照)

  次に、今日の福音ですが、ルカが伝えるイエスの十字架刑の場面です。

実は、文脈では、23章の33節から43節にかけて磔刑(たっけい)がいとも簡潔に報告されていますが、この聖書記事の本質は、この場面でイエスに従って来た者たちの間に生じた怒りや悲しみや痛みにもかかわらず、その重要性は何と言っても、第一に十字架の歴史的事実にこそあるのだということを、思い起こさせているのではないでしょうか。

 事実、わたしたちは信仰告白において「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ」と、確認します。

 しかも、ローマ帝国における見せしめの極刑(きょっけい)である十字架刑で死刑にされてと言う歴史的事実をしっかりと心に刻むべきではないでしょうか。

 とにかく、ルカは、十字架刑の場面を次のように報告しています。

「ほかにも、二人の犯罪人がイエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです(同上23:32-34)。」〕

 ここで、「彼ら」と言っておられるのは、十字架刑には、ユダヤ人とローマ人の両者が関係していたことを表すために、ルカが意図的(いとてき)に用いているといえましょう。

 ですから、今日に箇所で、ルカは再び、十字架につけられた人々にわれわれの注意を向けさせるために、三人が互いに語り合うのを聞かせてくれるのです。

 まず、犯罪者の一人は、すでに聞かれている二つの嘲(あざけ)り、つまり今日の箇所「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱(ぶじょく)して言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ(同上35b-37)。』」と。

  続いて、十字架上の三人の対話に注意を向けさせます。

「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分を救ってみろ。』すると、もう一人の方(ほう)がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」と。

 このもう一人の犯罪者は、彼ら自身がその受けている罰にまさに見合った者であることと、イエスが無実なのに不当な罰を受けていることをしっかり区別しており、この犯罪人は、イエスに対してまさに信仰告白をします。

「イエスよ、あなたの御国(みくに)においでになるときには、わたしを思い出してください。」と。

 それに対して、イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日(きょう)わたしと一緒に楽園にいる」と約束なさいます。

 ここで言われている「楽園」ですが、まず、創世記の人間が住む所として用意された「エデンの園(創世2:15)を連想させますが、コリントの教会への手紙では、使徒パウロの不思議な体験を「楽園にまで引き上げられ(同上12:4)と、更に、黙示録(もくしろく)では「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう同上2:7)。」とあるので、神に義と認められた者の住まいを表しているといえましょう。

 とにかく、回心した罪人とイエスとの対話を伝えているのはルカだけですが、イエスが栄光へと上げられることを(同上24:26;使徒2:32-36参照)主張するだけでなく、「救う」という言葉が、嘲(あざけ)りとからかいの中で使われるような状況で、救いの行為が行われたことの報告をもしていると言えましょう。

 つまり、イエスは「自分を救ってみろ」と、三回も嘲(あざけ)られており、片方の犯罪人は「自分自身と我々を救ってみろ」「我々」を加えています。

 ですから、ここでイエスは人を救っておられるのであり、救われた者が、死にかけた犯罪人であるということは、イエスは、ご自身の臨終のときにも、宣教を続けておられ、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである(同上19:10)。」を、まさに全(まっと)うなさったのです。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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