待降節第1主日・A年(22.11.27)

「あなたがたも用意していなさい」

 

(つるぎ)を打ち直して鋤(すき)とし 槍(やり)を打ち直して鎌(かま)とする(イザヤ2:4参照)

    早速、今日の第一朗読ですが、イザヤ書2章からの抜粋であります。

 この預言書は、66章ありますが、編集者とその時代によって、便宜上第一イザヤ(1-39章)、第二イザヤ(40-55章)、第三イザヤ(56-66章)とに分けています。

 ですから、今日の朗読箇所は、第一イザヤから取られており、その深刻な歴史的背景としては、南王国ユダが、北王国イスラエルと隣国のアラムとが結託して攻撃を受けた紀元前734年から732年に勃発(ぼっぱつ)した戦争であります。

 さらにこの預言者イザヤですが、紀元前765年ごろに生まれ、父親はアモツであり、その家系はユダ王国の貴族で、エルサレムまたはその近郊に暮らしていたと考えられます、また、ユダ王国の王ヒゼキアとその息子マナセの治世(687-642在位)まで生きた預言者であります。

 とにかく、彼の預言には、メシア預言に属する多くの言葉があり、メシア預言者のまさに第一人者と言えましょう。

 ですから、今日の箇所では、メシアの到来によって実現する「もはや戦うことを学ばない」時代の到来を、次のようにいとも荘厳に預言しています。

「終わりの日に

 主の神殿の山は、山々の頭(かしら)として堅く立ち

 どの峰(みね)よりも高くそびえる。

 国々はこぞって大河のようにそこに向かい

 多くの民が来て言う。

 『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。

 主はわたしたちに道を示される。

 わたしたちはその道を歩もう』と。」

 まず、冒頭で言われている、「終わりの日」ですが、「来るべき時」とも訳すことができ、まさに来るべき平和と調和に満ちたメシア到来の意味合いがあると言えましょう。次に預言は、続きます。

「主の教えはシオンから

 御言葉(みことば)はエルサレムから出る。

 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒(いまし)められる。

 彼らは剣(つるぎ)を打ち直して鋤(すき)とし

 槍(やり)を打ち直して鎌(かま)とする。

 国は国に向かって剣を上げず

 もはや戦うことを学ばない。」と。

 ここで言われている「主の教え」ですが、「律法」とも訳され、この文脈では、「主の教えの道をどのように歩むか」を示す主の導きを意味しています。

 さらに続く武器を農耕(のうこう)の道具に打ち直し、「もはや戦うことを学ばない」というくだりは、まさに今日の世界における核兵器の廃絶を預言しているのではないでしょうか。

 ですから、三年前に訪日なさった教皇フランシスコは、去る2019年11月24日、長崎・爆心地公園で、次のように力説なさいました。

「核兵器のない世界が可能であり必要であるという確信をもって、政治をつかさどる指導者の皆さんにお願いします。核兵器は、今日の国際的また国家の安全保障に対する脅威(きょうい)からわたしたちを守ってくれるものではない、それを忘れないでください。人道的および環境の観点から、核兵器の使用がもたらす壊滅的な影響を考えなくてはなりません(『すべてのいのちを守るため』20頁)。」と。

 

主イエス・キリストを身にまといなさい(ローマ13:14a参照)

 次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが書いたとされるローマの教会への手紙13章からの抜粋であります。

 ちなみに使徒パウロは、晩年ローマに囚人として護送されるのですが、この手紙がしたためられたのは、彼がコリントに滞在していた57年から58年にかけての冬と推定されます。

 ちなみにローマの教会ですが、当時ローマのキリスト者は、一つにまとまった大きな共同体ではなく、いくつかの小さな独立した家庭集会をもっていたに過ぎなかったようです。

 とにかく、今日(きょう)の箇所で、イエスの再臨に備えての基本的な心構えを次のように勧告しています。

「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いが近づいているからです。」と。

 イエスが、主としてご自分の再臨が近いことを警告なさり回心を呼び掛けられたように、パウロもキリストの再臨が真近(まじか)に迫っているという危機感があったようですが、その再臨は彼がこの地上に生きている間(あいだ)にはないと感じていたようでもあります。とにかく、極めて具体的な勧告を次のように勧めています。

「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。日中(にっちゅう)を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。・・・争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。」

 このくだりは、まさに黙示的つまり、幻や象徴などを用いて未来への確信と現在への勇気を与えようとする文学形式であります。

 ですから、「光と闇」や、「光の武具」などは、まさに黙示的表現と言えましょう。

 ちなみに別の手紙において霊的武具として信仰、希望、愛、真理、正義などをも挙げていますが(一テサロニケ5:8;エフェソ6:13-17)、最後の下(くだ)「主イエス・キリストを身にまといなさい。」は、洗礼の時すでに着た(ガラテヤ3.27参照)キリストをこそ身にまとい、つまりイエスの生き方に倣(なら)いなさいと勧告しているのではないでしょうか。

 ですから、日々、イエスのお言葉に従うようにという根本的な勧めと言えましょう。

 

一人は連れて行かれ もう一人は残される(マタイ24:40参照)

 最後に今日の福音ですが、マタイ福音書24章からの抜粋であり、キリストの再臨に備えてしっかりと心の準備をするようにという極めて厳しい警告であります。

 しかも、ノアの洪水のときのように、「何も気が付かなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。」と警告なさいます。

 特にここで言われている「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」ですが、キリストの再臨の前までは、キリストに従った者と、従うことを拒んだ者とは、外見上ほとんど同じですが、その時がくれば、両者ははっきりと分けられるというのであります。   

 ですから、最後に主は警告なさいます。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と。

 特に待降節の前半において、再臨の主をふさわしくお迎えできるように共同体ぐるみで共に励みましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st221127.html