年間第33主日・C年(22.11.13) / 第6回「貧しい人のための世界祈願日」

「忍耐によってあなたがたは  命をかち取りなさい」

 

義の太陽が昇るその翼(つばさ)にはいやす力がある

    早速、今日の第一朗読ですが、恐らく紀元前五世紀の前半に編集されたと考えられるマラキ書3章からの抜粋であります。

 特に、その3章の13節からは、正しい者の神が備えた日における輝かしい勝利について雄弁に預言している箇所であります。

 ですから、17節からは、次のように宣言されています。

「わたしが備えているその日に

 彼らはわたしにとって宝となると

 万軍の主は言われる。

 人が自分に仕える子を憐れむように

 わたしは彼らを憐れむ。

 そのとき、あなたたちはもう一度

 正しい人と神に逆らう人

 神に仕える者と仕えない者との

 区別を見るであろう。」と。

 この最初に言われている「その日」ですが、「主の日」とも言われ、究極的には神の民イスラエルに対する神の祝福と救いの日であり、神の敵である諸国民に対する審判と滅亡の日ですが、同時にイスラエルにとっても滅亡の危険性を含んでいる日と言えましょう。

 つづいて、今日の箇所に移ります。

「見よ、その日が来る。

 炉のように燃える日が。

 高慢(こうまん)な者、悪を行う者は

 すべてわらのようになる。

 到来するその日は、と万軍の主は言われる。

 彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。」と。

 ここで言われている「炉のように燃える日」ですが、審判(しんぱん)の典型的なイメージに他なりません。

 続いて、次のように強調されます。

「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには

 義の太陽が昇る。

 その翼(つばさ)にはいやす力がある。」

 これらの下(くだ)りは、旧約聖書中ここだけに見られる表現ですが、ここで言われている「義の太陽」は、輝かしい祝福を示していると言えましょう。

 また、「義」ですが、神の全能の力に重なる意味があり、裁きや勝利とも相通じます。ちなみに典礼においては、キリストに関連させ、降誕祭と主の公現のテキストとして使われています。

 次に、「翼(つばさ)ですが、太陽の光線のことであり、それによって、神を敬う者は、癒しを受けることが出来るというのです。

しかも、「いやす力」は、保護の力、命の力、解放の力をも意味した言葉と言えましょう。

 

対抗も反論もできないような言葉と知恵を授ける(ルカ21:15参照)

 次に、今日の福音ですが、先週に引き続きルカによる福音書の21章からの抜粋であります。

 まず、場面の確認ですが、エルサレムの神殿であります。しかも、聴衆は、弟子たちではなく、一般の民衆であります。なぜなら、神殿の破壊は、秘密なことではなく、すでに公(おおやけ)になったことだからに他なりません。

 ですから、イエスは彼らに向かって宣言なさいます。

「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」と。

 まさに、預言的裁きの警告を宣言なさいます。

「そこで、彼らは尋ねた。『先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴(しるし)があるのですか。』」と。

 ここで言われている「そのこと」ですが、神殿破壊を含めた、来るべき時に起こる他の一切の出来事を指しているといえましょう。

 しかも、神殿破壊やもろもろの歴史上の出来事が、まさに世の終わりにおける神の裁きと意味関連があることを示す「しるし」になるのか、という問に他なりません。

 ここで、イエスは、一気に世の終わりまでのことを簡潔に説明します。

「イエスは言われた。『惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。』」と。

 つまり、「時が近づいた」とうのは、偽(ぎ)キリストの特徴なのです。ですから、偽(ぎ)キリストや戦争は、世の終わりの近いしるしではないと念を押しておられるのです。

「そして更に、言われた。『民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉(ききん)や疫病(えきびょう)が起こり、恐ろしい現象や著しい徴(しるし)が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しする機会となる。』」と。

 まさに、キリスト者が体験しなければならない迫害によってこそ、キリストご自身が弟子たちのために証しするというのであります。

 つまり、主ご自身が裁き主として、迫害される弟子たちのために証言し、迫害する者を否定なさるからに他なりません。

 具体的には、ここで救いを、弟子を迫害するユダヤ人から取り上げて、異邦人に渡すという意味になります。

 ちなみに、本日は第6回「貧しい人のための世界祈願日」に当たり、教皇フランシスコは、メッセージを全世界の教会に送られました。

 そのさわりの箇所を、今日の説教の締めくくりとさせてください。

「近隣諸国に避難民として逃れて安全を得るため、何百万もの女性、子ども、老人が、被弾(ひだん)の危機を冒(おか)さざるを得ないのです。・・・不透明で不安的な状況に翻弄(ほんろう)される多くの人に、安心と平和をもたらすために適切に対応するにはどうしたらよいのでしょうか。・・・近年、中東や中央アフリカの紛争(ふんそう)、そして現在のウクライナの戦争から逃れてきた、何千何百万人もの難民を受け入れるために、門を開くよう住民全体を駆り立てる決意について、わたしは今、考えています。家庭が、家族単位で避難民を受け入れるために自宅を開放し、人間にふさわしい対応に努めています。」と。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st221113.html