年間第32主日・C年(22.11.6)

「すべての人は神によって生きる」

 

永遠の新しい命へとよみがえらせてくださる(二マカバイ7:9参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、旧約聖書続編にあるマカバイ記二7章からの抜粋であります。

 ちなみに、この書物の時代背景ですが、紀元前200年の少し前からパレスチナ地方がシリアの支配下に置かれ、特にシリアの王アンティオコス四世は、力をもってギリシャ主義の普及に努めたので、モーセの律法に忠実なユダヤ人にとっては迫害であり、特に彼らの宗教生活を覆(くつがえ)すものだったのです。

 ですから、この書物は、当時ユダヤの家族が先祖代々伝えられたユダヤ教を忠実に守るために、団結し、アンティオコス四世の残酷な命令に反対して、まさに殉教によって戦ったことをいとも感動的に物語っていると言えましょう。

 しかも、この命を懸けた闘争の結果、ユダヤは統一を確立したのですが、これは、律法に忠実なユダヤ人の情熱と勇気、特にユダ・マカバイとその兄弟たちの優れた指導によるものでした。

 ですから、今日の箇所では、壮絶な殉教の場面を、次のように伝えています。

「その日、七人の兄弟が母親と共に捕えられ、鞭(むち)や皮ひもで暴行を受け、律法で禁じられている豚肉を口にするよう、王に強制された。彼らの一人が皆に代わって言った。『一体あなたは、我々から何を引き出し、何を知ろうというのか。我々は父祖(ふそ)伝来の律法に背(そむ)くぐらいなら、いつでも死ぬ用意はできているのだ。』」〔二番目の者も〕息を引き取る間際(まぎわ)に、彼は言った。『邪悪なものよ、あなたはこの世から我々の命を消し去ろうとしているが、世界の王は、律法のために死ぬ我々を、永遠の新しい命へとよみがえさせてくださるのだ。』」と。

 旧約聖書では、まだ、復活についての明らかな宣言はありませんが、ここ続編に及んで、初めて殉教の場面で、まさに「永遠の新しい命へとよみがえらせてくださるのだ」という復活を指し示す証しが、強調されています。

 確かに、殉教という信仰の最高の証(あか)しこそ、復活信仰の告白となることを見事に宣言していると言えましょう。

 ですから、日本においても、キリシタン時代の殉教者の方々こそ、復活信仰の見事な証し人だったと言えるのです。その具体例を、紹介しましょう。

「1619年十月六日、都中(みやこじゅう)を引き回されたキリシタン五十二人は、鴨川の近く大仏の真正面に引き出された。そこにはすでに、二十七本の十字架が立てられていた。男性二十六人、女性二十六人、その内十五歳以下の子どもが十一人を数えた。役人は、南のほうから一番目の十字架にヨハネ橋本太兵衛(たひょうえ)を縛りつけた。捕らわれたときから、太兵衛(たひょうえ)が皆の支えになっていたことを役人は知っていたからである。中ほどの十字架には太兵衛(たひょうえ)の身重の妻テクラと五人の子どもがいた。テクラは三歳のルイサをしっかり抱いて立ち、両横には十二歳のトマスと八歳のフランシスコが一緒に縛られていた。鴨川に夕陽が映るころ、火がとうとう放たれた。

 炎と煙の中、『母上、もう何も見えません。』と娘カタリナが叫んだ。『大丈夫、間もなく何もかもはっきりと見えて、皆会えるから。』そう励ますと、テクラはいとし子たちとともにイエス様、マリア様と叫び、崩れ落ちた。母は息絶えた後も、娘ルイサを抱きしめたままだったという。」

 

もはや死ぬことはない 復活に与る者として 神の子だから(ルカ20:36参照)

 次に、今日の福音ですが、先週に引き続きルカによる福音書の20章からの抜粋であります。

 場面は、復活を否定していたサドカイ派の人々との論争であります。

 彼らは、早速、イエスに、モーセの律法を武器に論争を仕掛けます。

「七人とも同じように子どもを残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」

 復活を信じないサドカイ派にとって、結婚制度は、あくまでも命を子孫代々に伝達する必要な手段と考えていたのではないでしょうか。

 それに対してイエスは、全く別な視点でお答えになられます。

「この世の子らはめとったりとついだりするが、次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、もはや死ぬことはない。天使に等しい者であり、復活に与る者として、神の子だからである。」と。

 ここで言われている「次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々」とは一体誰のことなのでしょうか。

 実は、使徒パウロは、洗礼によって復活の新しいいのちに生まれ変わることができることを、次のように強調しています。

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。・・・わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます(ローマ6:4-8参照)。」と。

 更に、この復活の新しい命への門が私たちの死にほかならないことを、死者のためのミサの叙唱で、次のように祈ります。

「キリストのうちにわたしたちの復活の希望は、輝き、死を悲しむ者も、とこしえのいのちの約束によって慰められます。信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終った後(のち)も、天に永遠の住みかが備えられています。」と。

 ちなみに、イエスの親しい友人であったラザロが、彼が重い病気で苦しんでいるので、彼の姉妹マルタとマリアが早速イエスに知らせたときのことです。

「イエスはそれを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」と。

 ところが、その知らせを聞いてからも、イエスは、すぐ駆け付けたのではなく、なんと二日間も同じ所に滞在されたのです。

 結局、ラザロが死んで四日もたってから、ようやく彼らの町ベタニアにたどり着きます。

 そこで、イエスをお迎えしたマルタは、次のように彼女の本心をさらけ出して申し上げました。

「『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。けれども、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。』イエスが、『あなたの兄弟は復活する』と言われると、マルタは、『終わりの日の復活の時に復活することになっていることは存じております』と言った。イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれでも、決して死ぬことはない(ヨハネ11:21-26参照。』」と。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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