年間第31主日・C年(22.10.30)

「人の子は失われたものを捜して救うために来た」

命を愛される主よ、あなたはすべてをいとおしまれる(知恵11:26参照)

  早速、今日の第一朗読ですが、知恵の書11章からの抜粋であります。

 この書物は、紀元前1世紀頃に、エジプトの北端にある都市アレクサンドリアに住んでいたギリシャ語を話すユダヤ人によって、書かれたと考えられます。

 実は、当時は、ギリシャ化政策(ヘレニズム)すなわち唯物主義的異教文化の強い影響に晒(さら)されていた時代でした。

 ですから、その文化の強い影響によっていわば信仰の危機を迎えていた同胞のユダヤ人たちを、慰め、勇気付け、将来と来世に対して確固たる希望を与えるために、この書物が書かれたと言えましょう。

 しかも、今日の箇所は、救いの歴史における知恵の働きについて、特に天地創造からイスラエルのエジプト脱出を背景に語られた箇所です。

 ですから、次のように強調しています。

「主よ、御前(みまえ)では、全宇宙は秤(はかり)をわずかに傾ける塵(ちり)

 朝早く地に降りる一滴の露(つゆ)にすぎない。」と。

 続いて人間に眼差しを向けられます。

「全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、

 回心(かいしん)させようとして、人々の罪を見過ごされる。」

 ここで言われている「回心(かいしん)ですが、伝統的には、悔い改めると言われてきたことばで、生き方、そして考え方の根本的転換を意味することから、回(まわ)す心と表記するようになりました。

 次に神の被造物に対する創造的な愛を強調します。

「あなたは存在するものすべてを愛し、

 お造りになったものを何一つ嫌われない。

 憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。

 あなたがお望みにならないのに存続し、

 あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。」

 続いて神は命を愛されるので、人を回心(かいしん)へと導かれることを強調しています。

「命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、

 あなたはすべてをいとおしまれる。

 あなたの不滅(ふめつ)の霊がすべてのものの中にある。

 主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、

 罪のきっかけを思い出させて人を諭される。

 悪を捨ててあなたを信じるようになるために。」と。

 

イエスがどんな人か見ようとした(ルカ19:3参照)

  次に今日の福音ですが、先週に引き続きルカによる福音書の19章からの抜粋であります。

 この箇所は、ルカだけが伝えている感動的なエピソードで、イエスが間もなく目的地のエルサレムに入城なさる前の出来事として報告されています。

 まず、場面設定ですが、対岸のヨルダン方面からの交通の要所であった町エリコです。

 ローマ時代には、税関所があり、ここでの徴税人はローマから関税徴収を請け負う委託業者でしたので、住民からだまし取るのが一般的だったので、法廷では証人に立つ資格もない詐欺師とされていたそうです。

 しかも、ザアカイはその頭領(とうりょう)で金持ちだったのです。

 けれども、彼は、単純な好奇心からでしょうか、「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることが出来なかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」と。

 ここでザアカイのイエスに一目でもいいから会いたいというひたむきな心意気が示されているのではないでしょうか。

 

今日は、ぜひあなたの家にとまりたい(同上19:5参照)

 ですから、それに気づいたイエスのほうが、早速、彼に向かって命じられます。

「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と。

 このイエスのご命令は、9節の「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」と見事に対応しています。

 つまり、イエスが「今日(きょう)は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と、主張なさった「今日(きょう)は、「救いの今日(きょう)であり、まさにイエスにおいて罪人に神の救い、つまり終末(世の終わり)の救いが先取りされて訪れたことを宣言していると言えましょう。

 ちなみに「ぜひ泊まりたい」は、ギリシャ語では「泊まらなければならない」となりますが、神による救いの計画性を表しているのです。

 そこで、「ザアカイは急いて降りて来て、喜んで迎えた。」と報告されていますが、このザアカイの喜びこそ、人々から軽蔑されて生きて来た者の喜びではないでしょうか。ですから、「これを見た人たちは、皆つぶやいた。あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」と。

 まさに、泥棒と同じような徴税人の、しかもその頭領(とうりょう)の家に泊まるなどというのは、徴税人に終始だまされている住民たちにとっては、もってのほかのことではないですか。これこそ、イエスの救いの御業(みわざ)の意外性ではないでしょうか。

「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかからだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」と。

 ちなみに、ファリサイ派のラビたちは、最初には財産の五分の一を、次年度からは、収入の五分の一を寄付していたそうですが、ザアカイはなんと財産の半分というのです。

 また、徴税人は、だまし取った金額とさらにその五分の一を加えて弁償する義務を課せられていたということですが、ザアカイは、なんと、だまし取った金額の四倍を返すと言うのです。

 

今日、救いがこの家を訪れた(同上19:9b参照)

 そして、その日の救いの出来事の締めくくりとして、イエスは宣言なさいます。

「今日(きょう)、救いがこの家を訪れた。」と。

 ここで言われている「今日(きょう)という言葉ですが、まさに旧約時代に示された神の計画どおりであることを、暗示していると言えましょう。

 ですから、「この人もアブラハムの子なのだから。」と、ザアカイについて宣言するとき、それは、たとえ人々から軽蔑された罪人であっても、神の憐れみの救いの計画通りの者であることを宣言なさったと言えましょう。

 ここで言われている「この家」ですが、家族だけでなく、使用人なども含む家全体と言う意味で、ルカにとって重要な言葉です。

 たとえば、使徒言行録には次のような箇所がありあります。

「コルネリウスは、イタリア隊と呼ばれる部隊の百人隊長で、信心深く、家族一同と共に神を畏れ敬い、民に数々の施しをし、絶えず神に祈っていた(使徒10:1参照)。」と。

 今日もこのミサによって派遣されていくそれぞれの家族全員に救いの恵みが豊かに注がれるように共に祈りましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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