「だれでもたかぶる者は低くされ へりくだる者は高められる」
主は裁く方であり 人をえこひいきなさらない(シラ35:15b参照)
早速、今日の第一朗読ですが、知恵文学に属するシラ書の35章からの抜粋であります。
まず、この書物が書かれた時代背景ですが、パレスチナ地方が、エジプトの支配から、シリアの支配下に移された時代で、ユダ王国が、オリエントにおいて実施されていたギリシャ化政策(ヘレニズム)を取り入れたので、大きな混乱と苦しみ、そして宗教的な危機に晒(さら)されたのであります。
特に、この文化的・宗教的危機に対して、ユダヤ教の保守的立場から受け止めようとしたのが、このシラ書と言えましょう。ですから、この書物を教理の教科書として活用し、求道者に読ませ、特に教会員の養成のために使っていたことから、「集会の書」とも呼ばれるようになったのであります。
ですから、著者であるシラの子エレアザルの子、エルサレムの人イエススは、自分たちが、先祖から受け継いだ信仰上の確信を強めるために、格言や詩の形式を用いて、紀元前200年から180年にかけて続く世代に本書を書き残したといえましょう。
ちなみに、今日の箇所は、35章の「律法と真の礼拝」について語る中からの次のような抜粋であります。
「主は裁く方であり、人を偏り見られることはない(えこひいきをなさらない)
貧しいからといって主はえこひいきなさらないが、
虐げられている者の声を聞き入れられる。
主はみなし子の願いを無視されず、
やもめの訴える苦情を顧みられる。」と。
続いて、祈りについて、次のように語られます。
「御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、その祈りは雲にまで届く。
謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、
それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。
彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、
正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるまで。」と。
だれでも高ぶる人は低くされ へりくだる者は高くされる(ルカ18:14b参照)
次に今日の福音ですが、先週、同じルカによる福音の18章の1節から8節で、「気を落とさず絶えず祈ならければならいことを弟子たちに教えるために」裁判官とやもめの譬えを聞きましたが、今日の箇所では、「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」によって、神と人の前での自分の基本的なあり方について、語られておられると言えましょう。
ですから、冒頭で、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」このたとえを語られたという場面設定になっています。
実は、このたとえのルーツと考えられるパレスチナ地方に伝わる次のような伝説があります。
「わが神、わが先祖の神よ、わたしはあなたが私に律法の教えの家と集会堂に座す人々につらなる者とさせてくださったこと、わたしを劇場とか演技場につらなる者となさらなかったことに感謝します。私は努力し、彼らも努力します。私は熱心で彼らも熱心です。しかしわたしは楽園を得るのに努力しますが、彼らは墓の泉のために努力します。」と。
ですから、今日の箇所で紹介されているファリサイ派の人の祈りは、決して誇張ではなく、彼らの耳にはまさに当たり前だったと言えましょう。
また、このたとえで、ファリサイ派の人も、徴税人も「立って祈った」と言われていますが、当時、立ちながら祈るのは普通の姿勢でした。
さらに、ファリサイ派の祈りにある「不正な者」ですが、特に人をだます者、特に徴税人はたびたびそう受け止められていたようです。
しかも、この祈りで、モーセに与えられた神の十戒の三つの掟「姦淫するな、盗むな、偽証するな」(出エジプト20:14-16参照)を、忠実に守っていることを主張しています。さらに、「わたしはほかの人たちのように」と、ことさらに、徴税人を具体例として挙げでいます。
ちなみに、紀元前80年頃に亡くなったラビ・シメオンは、自分の正しさが大きいと考えていたということですが、ここでは更に、単に律法を忠実に守るだけでなく、それ以上の善行を誇っています。つまり、律法は、すべての民に年一回の断食を定めている(レビ16:29参照)のに対し、なんとファリサイ派は、ユダヤ人皆のためには、月、木の二度断食したそうです。
また、律法が定める十分の一税は、収入のすべてではなかったと言うことです。けれども、ファリサイ派の厳格派は一度買った物の中から再び十分の一を払っていたのです。とにかく、このような犠牲と善業によって彼らは、一方では、他の人々を軽蔑していたのではないでしょうか。
ところで、異邦人教会出身のルカが、異邦人教会に宛てた福音書に、このようなたとえをわざわざ伝えるのは、教会の中には常にこれに似た精神の持ち主がいるからではないでしょうか。
さらに14節で言われている「義とされて」ですが、ギリシャ語から直訳では、「神によって正しいと宣言された者、正しいと認められた者」となり、ここでの徴税人に他なりません。
つまり、自分の罪を謙虚に認める心の回心によってこそ、初めて神に正しいと認められるのです。
すなわち、人の正しさは、その人の苦行や善行によるのではなく、神の言葉に忠実に従うことによってこそ、初めて神の前で正しい者とされると言うのです。
しかも、締めくくりで言われている「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ですが、イエスの教えと行いによって常に示されている根本的な転換が、ここでも適応されていると言えましょう。
また、ちなみに悔い改めることを回心と言い換えていますが、そのギリシャ語ではMetanoia ですが、生き方の根本的転換と新しい姿勢をしめす言葉です。
ですから、キリスト者は、洗礼を受けることによって、それまでとは全く違った新しい生き方に根本的に切り替える必要があります。
このことを使徒パウロは、ローマの教会に宛てた手紙で、次のように強調しています。
「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献(ささ)げなさい。これこそ、あなたのなすべき礼拝です。あなたはこの世に倣(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい(ローマ12:1b-2参照)。」と。
今週もまた、派遣されるそれぞれの場で、このキリスト者としての新しい生き方を証しできるように共に祈りましょう。
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