年間第29主日・C年(22.10.16)

「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」

 

御言葉(みことば)を宣べ伝えなさい(二テモテ4:2参照)

  早速、今日の第二朗読ですが、先週に引き続き使徒パウロが書いたとされるテモテへの手紙3章と4章からの抜粋であります。

  使徒パウロは、晩年ローマでの殉教を目前に控えて、司牧者テモテに宛ててまさに遺言として手紙をしたためました。

  ですから、今日の箇所も、同伴者であるテモテに司牧者としての核心に触れる勧告を、次のように書き送っています。

 「自分が学んだことから離れてはなりません。・・・また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことを知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。・・・こうして、神に仕える人は、どのような善い業(わざ)をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」と。

  ここで、「自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。」と、念を押していますが、実は、既にモーセの時代から、子どもの信仰教育の基本は、日々の生活のただ中において絶えずみことばを学ぶことであると、モーセは次のように強調しています。

 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

  今日(きょう)わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子どもたちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているも、これを語り聞かせなさい。(申命記6:4-7参照)と。

  続いて、使徒パウロは、次の様に厳(おごそ)かに命じます。

 「御言葉を宣(の)べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。咎め、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」と。

  ここで言われている「折が良くても悪くても」という言い回しですが、ギリシャ語からの直訳では、「季節であっても、季節でなくても」となりますが、御言葉の宣教は、時と場所を選ばないので、パウロ自身が、会堂においても、広場においても、牢獄においても、常に福音を宣べ伝えたように、テモテにも、そのようなことを勧めているのではないでしょうか。

  また、このパウロの宣教命令は、実は、イエスが、天に上(あ)げられる前に、弟子たちに次のように命じられたことに基づいています。

 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。・・・イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至る所で宣教した。主は彼らと共に働き、彼らのことばが真実であることを、それの伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:15b-20参照)

  しかも、この福音宣教の原動力は、聖書であることを、教皇フランシスコは、近年、次のように強調しておられます。

 「福音宣教全体は、神のことばに根ざし、それを聞き、黙想し、それを生き、祝い、あかしします。聖書は、福音宣教の源泉です。従ってみことばを聴く養成を受け続ける必要があります。教会は自らを福音化し続けなければ、福音を宣教できません。神のことばを『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが絶対に必要です。(『福音の喜び』174項参照)」

 「聖書の学びは、すべての信者に開かれていなければなりません。・・・福音化には、御言葉に親しむことが必要です。また、教区や小教区、其の他カトリックの諸団体には、聖書の学びに真剣に粘り強く取り組むこと、さらに個人や共同での祈りによって聖書を味わう霊的読書を促すことが求められています。(同上176項参照)と。

 

果たして地上に信仰を見出すだろうか(ルカ18:8b参照)

  次に、今日の福音ですが、先週に引き続きルカによる福音書の18章からの抜粋であります。

  まず、文脈の確認ですが、17章22節から37節で、終末(救いの完成)における裁きについての警告が述べられています。

  ですから、今日のたとえはその続きと言えましょう。

  つまり、イエスは、救いの完成を目指して根気強く祈ることの大切さを、今日のたとえで説明しておられるのです。

  では、今日のたとえに登場する人物を確認してみましょう。

   まず、やもめに代表される弱者たち、また虐げられている人々の叫びを、父なる神は必ず聞いて下さり、彼らの味方になって裁いてくださるというのです。

  ですから、今日のたとえには、三つの要点があると言えましょう。

  第一は、たとえそのものの裁判官とやもめの教訓としては、絶えず祈れば、神は必ず聞き入れてくださるということ。

 第二は、熱心に祈る者に対する神の御加護の「速やかさ」です。

 第三は、終末における人の子の到来までに、人は続けて祈るほどの信仰を持ち続けることができるかという信仰の問題であります。

  ですから、1節の「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」のは、人の子が栄光に包まれて再び来られるまで。また、「不正な裁判官」とは、旧約では具体的に特に貧しい人や孤児と寡に対して横暴な振る舞いをする者とされています。

  ですから、旧約では、神を寡や孤児のために有利に裁く保護判事にしています。

  また、ここで「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」と言われるのは、 7節の「いつまでもほうっておかれることがあろうか」という慰めの言葉の背後には、終末の艱難においては、神は選ばれた人々のために、その期間を短くするという考えがあるからと言えましょう。

  そして、最後の「地上に信仰を見出すだろうか」というくだりですが、ここで言われている「信仰」とは、人の子の再臨まで絶えず続けることができる信仰を意味しているのではないでしょうか。

  また、締めくくりに、「人の子が、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る。(マタイ25:31参照)」という終末の場面を確認してみましょう。

 「そのとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人達に言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いているときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』・・・

  はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ25:31-40参照)

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st221016.html