「あなたの信仰があなたを救った」
主以外の他の神々に 焼き尽くす献げ物をささげることはしません
(列王記下5:17参照)
今日の第一朗読は、歴史書に属する列王記下5章からの抜粋であります。
この書物ですが、ダビデ王の最後の日々から始まり、ユダ王国の滅亡までをまとめた歴史書であります。
しかも今日の箇所は、預言者エリアの弟子エリシャが、アラムの王の軍司令官ナアマンの重い皮膚病を奇跡的に癒すという次のような感動的な場面を伝えています。
「ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。エリシャは使いの者をやってこう言わせた。『ヨルダン川に行って七度(ななたび)身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。ナアマンは怒(いか)ってそこを去り、こう言った。『彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。・・・』彼は身を翻(ひるがえ)して、憤慨しながら去って行った。しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。
『わが父よ、あの預言者が大変なことを命じたとしても、あなたはそのとおりになさったにちがいありません。・・・』
そして、今日の箇所に続きます。
そこで、この奇跡的癒しを体験したナアマンは、エリシャのもとに戻り、お礼の贈り物を差し出します。
ところが、エリシャは、それを辞退します。
「わたしの仕えている主は生きておられる。わたしは受け取らない。」と。
そこで、異邦人のナアマンは、まさにイスラエルの民(たみ)が信じていた主なる神に対して、次のような信仰告白をします。
「僕(しもべ)は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることをしません。」と。
わたしたちはキリストと共に死んだのなら キリストと共に生きるようになる(テモテ2:11参照)
次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロの第二回宣教旅行からその同伴者となったテモテに、殉教を間近(まじか)にひかえ、まさに使徒としての人生行路を終えようとする使徒パウロが、死の少し前にしたためた遺書とも言うべき手紙に他なりません。
ですから、まさに信仰の核心に触れる大切なことを総括している内容と言えましょう。
「わたしの宣(の)べ伝える福音によれば、イエス・キリストは、ダビデの子孫で、死者の中から復活されたのです。この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。・・・次の言葉は真実です。
『わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きるようになる。
耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。
キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。
わたしたちが誠実でなくでも、キリストは常に真実であられる。
キリストは御自身を否むことができないからである。』
この鍵括弧(かぎかっこ)でくくられている箇所は、初代教会で歌われていた典礼賛歌の一部と考えられますが、特に、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」というくだりは、使徒パウロがローマの教会に書き送ったとされる手紙の6章で力説している洗礼についての次のような説明とみごとに重なるのではないでしょうか。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(ローマ6:4参照)」と。
イエスの足もとにひれ伏して感謝した(ルカ17:16a参照)
最後に今日の福音ですが、先週に引き続きルカ福音書の17章からの抜粋であります。
まず、今日の場面ですが、ルカは冒頭で、「イエスはサマリアへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。」と、まさに最期(さいご)の時を迎えるエルサレムに向かう決意によって始められた旅であることに念を押しています。
しかも、今日の舞台は、サマリア(異邦人の地域)とガリラヤ(イエスの出身地)との間と言うのです。これは、ユダヤ人とサマリア人の対立関係が、今日(きょう)の出来事の接点になっていることを前もって準備したと言えましょう。
では、今日(きょう)の重い皮膚病からの奇跡的いやしの場面を確認してみましょう。
まず、「ある村に入ると,重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方で立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください』と言った。」
当時、そのような重い皮膚病で苦しんでいた患者さんたちは、社会から隔離された特定の場所で、おそらく共同生活を強いられていたようです。ですから、一人で単独でではなく、十人が組になって「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて・・・」と。
ここで、彼らがイエスを「イエス様、先生」と、まさにこのイエスこそが、普通の医者が治すことが出来ない難病をたちどころにいやすことがおできになるという確固たる信頼を、すでに抱いていたのではないでしょうか。
そこで、イエスは、律法の当時の規定にしたがって、その病から治った証拠として「祭司たちのところに行って、体をみせない」と、イエスは、彼らに命じます。しかも、イエスが、彼らが掟に従って祭司たちの所へ行く道すがらすでに癒されたのです。
ところが、其の自分の癒しに気付いた一人のサマリア人だけが、「大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」と言うのです。
丁度、今日の第一朗読に登場したナアマンのように、まさに神に向かって信仰告白つまり賛美しながら、その神の素晴らしい御業(みわざ)を重い皮膚病からの癒しとして体験できたので、「ひれ伏して感謝」することができたのではないでしょうか。
ちなみに私たちの信仰体験においても、賛美と感謝は密接に関連していると言えましょう。つまり、神からの恵みの具体的な体験があれば自ずと賛美がわいてくるでしょうし、また、賛美しながら、自然に感謝に変わることもあるのではないでしょうか。
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