年間第27主日・C年(22.10.2)

「わたしどもは取るに足らない僕(しもべ)です  しなければならないことをしただけです」

 

神に従う人は信仰によって生きる(ハバクク1:4参照)

    今日の第一朗読は、表題で、預言者と明記しているハバククの預言書1章と2章からの抜粋(ばっすい)であります。

 この預言者ですが、恐らくユダ王国のヨシア王の時代から捕囚後のペルシャ時代に、つまり紀元前538年から333年の間に活躍したと考えられます。

 とにかくその時代は、真剣に生きようとしていた人たちが、悲惨な現状の最中(さなか)にあって伝統的な信仰に立ち帰り、神に全面的に信頼し信仰を貫いて行くべきことを強調しているといえましょう。

 ですから、今日に箇所で示されているように、ハバククは真剣に神に訴えます。

「どうして、あなたはわたしに災いを見させ

 労苦に目を留めさせられるのか。

 暴虐と不法がわたしの前にあり

 争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。」と。

 この悲痛な訴えは、ユダ王国を新たに台頭した大国新バビロニア帝国による攻撃の、痛手が背後にあったのかも知れません。つまり、すでに国内は荒廃し、不正がはびこっている悲惨な状況なのです。

 ですから、「わたしが、あなたに『不法』と訴えているのに

あなたは助けてくださらない。」と、叫び続けるのです。

 そこで、神は確かにお答えになります。

「幻(まぼろし)を書き記せ

 走りながらでも読めるように(それを読む者が容易(ようい)に読めるように)、板の上にはっきりと記せ。・・・

 たとえ、遅くなっても、待っておれ。・・・

 見よ、高慢(こうまん)な者を。彼の心は正しくありえない(心がまっすぐでない者は崩れ去る)

 しかし、神に従う人は信仰によって生きる(正しい人はその誠実さによって、生きる)。」と。

 この最後の節こそ、ハバクク書の啓示(けいじ)の頂点とも言える大切な箇所で、昔から深遠(しんえん)な真理を伝えるものとしてよく取り上げられています。 

 ここで言われている「信仰」ですが、抑圧する勢力下で苦しむときにも、神への揺るぎない忠実、誠実を表していると言えましょう。

 すなわち必ずやって来る裁きの日に悪人は滅びるが、神への確固たる信仰を持っている人は「生きる」と言うのであります。

 

おくびょうの霊ではなく力と愛と思慮分別(しりょふんべつ)の霊を わたしたちにくださった(二テモテ1:7参照)

  この手紙の受取人ですが、使徒パウロの第二回宣教旅行の途中、二回目に訪れたルカオニア地方のルステラで、テモテに割礼を施して、その旅行に同伴し、その時以来、彼は使徒パウロの忠実な同伴者となったと言えましょう。

 この司牧書簡テモテへの第二の手紙ですが、パウロの殉教を間近にひかえ、まさに使徒としての人生行路を終えようとする彼の遺書ともいうべきもので、彼の死の少し前にしたためたと推定されます。

「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別(しりょふんべつ)の霊をわたしたちにくださったのです。・・・神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」と。

 ここで言われている「おくびょうの霊」ですが、とにかく司牧書簡でよく使われる「霊」は、キリスト者の心に現存する聖霊を意味するだけでなく、人を聖なる者とする神聖な力、賜物(たまもの)、すなわちわたしたちの心にくだる聖霊の現存とともに、わたしたちに与えられる賜物(たまもの)にほかなりません。

 

命じられたことを果たしたからといって主人は僕に感謝するだろうか(ルカ17:9参照)

  最後に今日の福音ですが、ルカ福音書17章からの抜粋(ばっすい)であります。

 実は、この17章ですが、1節から10節の段落で、つまずき、赦し、信仰、そして奉仕についてのイエスの教えを伝えています。

 ですから、今日の朗読箇所は、信仰と僕の奉仕についてのイエスのお言葉に限定されています。

 ちなみに、なぜ弟子たちが、「わたしたちどもの信仰を増してください。」と願ったのでしょうか。

 それは、共同体が避けることができないつまずきつまり、兄弟を神への服従から反らしてしまう行いと言葉について、また、罪を犯した兄弟を無制限に赦すことの難しさを、体験していた弟子たちが、イエスの命令に忠実に従うことができるように「わたしたちの信仰を増してください」と単刀直入に願ったのではないでしょうか。

 ルカは、冒頭で「使徒」と特に限定して、つまり、直接イエスに訓練されている弟子たちだけでなく、教会のリーダーとしての使徒の責任感から、信仰を強めなければならないと痛感し、「復活の主」が、「からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、[抜け出して海に根を下ろせ]と言っても、言うことを聞くであろう。」と断言しているのではないでしょうか。

 つまり、弟子たちがすでに生きている信仰の可能性を、十分に発揮することを勧めているのではないでしょうか。つまり、「不可能だ」(根こそぎにされた木)や、「ばかげている」(海の中に木を植えること)などと言った言葉を退けて、彼らをまさに神の全能の力を引き出すことができるように励ましておられると言えましょう。

 次に、この最後のたとえですが、もし、冒頭の「使徒」たちの発言によって促されたものならば、第一に、使徒職が徹底して奉仕職であることの教訓であり、第二は、使徒だから必然的に信仰を増していただけると思わないで、むしろイエスが強調なさったように「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(みのしろきん)として自分の命を献(ささ)げるために来たのである(マルコ10:43参照)。」と。

 ですから、わたしたちの教会が奉仕の共同体になれるように、皆が奉仕に徹することができるように共に祈りましょう。

 さらに派遣されるそれぞれの場においても奉仕が出来るよう努めましょう。

 

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
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