年間第21主日・C年(22.8.21)

「狭い戸口から入るように努めなさい」

 

あらゆる国民の間から わたしの聖なるエルサレムに連れて来る(イザヤ66:20参照)

   早速、今日(きょう)の第一朗読ですが、イザヤ書最後の66章からの抜粋であります。

 実は、このイザヤ書は、近年の聖書研究の結果、便宜上第一イザヤ(1-39章)、第二イザヤ(40-55章)、第三イザヤ(56-66章)に編集者と年代によって分けるようになりました。

 ですから、今日の朗読箇所は、第三イザヤの最後の章となり、編集年代は、紀元前538年に始まる捕囚からの故国への帰還後の、混乱期に当たります。

 従って、今日の箇所では、第三イザヤが、次のように大胆に預言します。

「わたしは、すべての国、すべての言葉の民を集めるために望む。・・・彼らはあなたたちのすべての兄弟を主への献(ささ)げ物として、馬、車,駕籠(かご)、ラバ、ラクダに載せ、あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れて来る。」と。

 まさに、半世紀にわたる試練の捕囚時代がおわり、神の栄光が現わされ、異国の地に強制移住させられていたイスラエルの民が故国に帰るとき、なんと「あらゆる国民の間からわたしの聖なる山エルサレムに連れてくる」と主なる神が宣言するのであります。

 この壮大な預言は、今日、ますます現実味を帯びて来たと言えるのではないでしょうか。

 ですから、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、次のように強調しておられます。

「キリスト教の歴史の二千年間では、数え切れない民族が信仰の恵みを受け、それを日常生活の中で花咲かせ、それぞれの国の文化様式を通して伝えてきました。ある共同体が救いの告知を受け入れると、聖霊は福音の造り変える力によって、その文化を豊かにします。教会の歴史が示す通り、キリスト教はただ一つの文化様式に限定され得ません。

 むしろ、『福音の告知と教会の伝統に全面的に忠実でありながら自己を完全に保つことによって、キリスト教はまた、多くの文化や民族の顔をも持つようになるでしょう』。」(同上116項参照)

 

そこでは後の人で先になる者があり 先の人で後になる者もある(ルカ13:30)

  次に、今日の福音ですが、ルカによる福音書13章からの抜粋であります。

 まず、冒頭で、「そのとき、イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。」

 実は、すでに9章の  51節で、すでに「さて、イエスは、天に上げられるときが近づいたので、エルサレムに向かって出発しようと決心し、自分に先立って使いの者を遣わされた。」と、その旅の目的を確認しています。

 ここで言われている「天に上げられるとき」ですが、ヨハネ福音書では、イエスの弟子たちに対する切なる思いをこめて、次のように強調されています。

「イエスは、この世から父のもとに移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた。」(ヨハネ13:1)と。

 ところで、ルカの文脈では、その旅の道すがら無名の一人の人物が、突然、極めて重大な質問を、つまり「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と。

 それに対して、イエスは、即答を避け「一同に言われた。『狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてからでは、あなたがたが外に立ってたたき、【ご主人様、開けてください】と言っても、【お前たちがどこの者か知らない】という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、【ご一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです】と言いだすだろう。しかし主人は、【お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ】と言うだろう。

 とにかくイエスのお答えは、いきなり「狭い戸口から入るように努めなさい。」なのです。

 このイエスのお言葉を、理解するために、初めに確認したように、この旅は、そもそもエルサレムで最期を迎える旅であること、つまり、まず、イエスに最後まで従う覚悟が、必要なのです。

 ですから、「狭い戸口」とは、人を排除するということではなくて、あくまでも救われる「権利」について語っているといえましょう。

 したがって、救いは、単に物理的にイエスの近くにいるから実現することではなく、あるいはイエスと飲み食いをしたとか、広場で教えを拝聴したとかだけでは不十分なのです。

 あるいは、「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。」ことに成り下がってしまうというのであります。

 では、救いとは一体なんなのですか。

 実は、すでにイエスは、弟子たちに向かって次のように宣言なさっておられます。

「わたしについて来たい者は、自分を否定し、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」(マタイ16:24-28参照)

 

 

【A4サイズ(Word形式)にダウンロードできます↓】

drive.google.com

 

【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220821.html