年間第22主日・C年(22.8.28)

「だれでも高ぶる者は低くされ  へりくだる者は高められる」

 

主はへりくだる人によってあがめられる(シラ書3:20b参照)

   まず初めに、今日の第一朗読ですが、知恵文学に属するシラ書(集会の書)3章からの抜粋です。

 この書物は、紀元前2世紀頃に、シラ・エレアザルの子、エルサレムのイエススが編集したと考えられます。彼は、ギリシャ化政策(ヘレニズム)によって、伝統的なユダヤ教がまさに宗教的危機に直面していた時代に、同胞のユダヤ人たちの信仰を強めるために、この書をしたためたと考えられます。

 ですから、今日の箇所では、信仰者の生き方の基本について、具体的に次のような勧告をしています。

「子よ、何事(なにごと)をなすにも柔和(にゅうわ)であれ。

 そうすれば、施(ほどこ)しをする人にもまして愛される。」

 ちなみに、イエスは、山上の説教で次のように励ましてくださいます。

「柔和な人は幸いである。その人たちは、地を受け継ぐ。」(マタイ5:4参照)

 ここで、イエスが強調なさっておられる「柔和な人」とは、たとえ不幸な境遇にあっても心を穏やかに保つことのできる人と言えましょう。

 また、「地」とは、旧約聖書で語られるイスラエルの民に与えられる「乳と蜜の流れる土地」(出エジプト3:8,17参照)を、思い出させます。

 そして「主はへりくだる人によってあがめられる。」というのです。

 まさに、謙遜こそ神の偉大さを受け入れることであり、同時に自分の惨めさを認めることにほかなりません。

    ですから、わたしたちは、自(みずか)らの限界を受け入れ、神に全面的に信頼すべきことを悟らなければなりません。また、

「賢者(けんじゃ)の心は、格言を思い巡らし、

 知者の耳は、格言を熱心に聴く。」と。

 ちなみに、ヘブライ語の原本では、「賢者(けんじゃ)の心は知者の諺(ことわざ)を深く思い、知恵に注意深い耳は喜びを覚える。」と。

 

あなたがたが近づいたのは 新しい契約の仲介者イエスなのです(ヘブライ12:22-24参照)

  次に第二朗読ですが、伝統的には使徒パウロがキリスト教に改宗したヘブライ人に書き送った手紙であると受け止めてきましたが、近年の聖書研究の結果、本書の編集者は、恐らくパウロの教えを受け、その神学に培(つちか)われた弟子の一人と考えられます。

 また、内容に関しても、手紙と言うよりは、長い説教集と言えましょう。

 ですから、この12章では、まず、冒頭で、次にように勧告しています。

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座(ぎょくざ)にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、ご自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(同上12:1-3参照)と。

 そして、今日の箇所の後半に続きます。

「あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子(ちょうし)たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエスなのです。」と。

 まず、ここでいわれている「シオンの山」ですが、著者は、古い契約の象徴であるシナイ山について、語ってから、新しい契約の象徴である神殿のあるエルサレムの丘について語ります。

 また、「生ける神の都、天のエルサレム」などの言い回しは、まさに「シオンの山」と同じ意味であり、この輝かしい場面が、恐怖に満ちたシナイ山と比べられています。

 さらに、ここでいわれている「長子(ちょうし)たちの集会」ですが、キリスト者の教会を指しており、特にイスラエルの民と区別するために、こう呼ばれていたと考えられます。

 ちなみに、「天に登録されている」という表現は、キリスト者の名前がすでに天に記されており、神が彼らを永遠の命にあずかる者と定めたということにほかなりません。

 

正しい者たちが復活するとき あなたがたは報われる(ルカ14:14b参照)

  最後に今日の福音ですが、ルカによる福音書14章からの抜粋であります。

 場面は、ファリサイ派の議員の家です。

 その家で、「イエスは、招待を受けた客が上席(じょうせき)を選ぶ様子に気付いて、彼らにたとえを話された。『婚宴に招待されたら、上席についてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席(じょうせき)に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目(めんぼく)を施すことになる。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。』

 このたとえは、まず神に対して、そして人に対し、つねに謙遜であれと教えておられるので、単に世間での人間関係の処世術(しょせいじゅつ)についてではありません。

 ですから、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とは、まさに神が人を取り扱うときの原理であり、また、謙遜こそ神の国に入るための第一の資格であることにほかなりません。

 ですから、マタイは次のように自分を低くすることの大切さを強調しています。

「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることができない。自分を低くして、この子どもにようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」(同上18:3-4参照)と。

「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催(もよお)すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。』

 最後に言われている「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」ですが、まさに救いの完成(parousia)の暁(あかつき)にこそ神から予期しない報いをいただけると言うのであります。

 ですから、私たちの日々の生き方が、常に終末(救いの完成)を、目指すことができるように共に祈りましょう。

  

   

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220828.html