「わたしの弟子になる覚悟とは」
私たちは知恵によって救われたのです(知恵9:19参照)
早速、今日の第一朗読ですが、知恵文学という文学形式に属する知恵の書9章からの抜粋であります。 その時代背景としては、恐らくギリシャ時代(333~63B.C.)に地中海沿岸一帯に広がったヘレニズム(ギリシャ化政策)によって伝統的ユダヤ教の信仰が、危機に晒(さら)された時代と言えましょう。
ですから、知恵文学は、その試練の時代にまさにユダヤ教の正統な信仰を生きるために生まれた文学形式と言えましょう。
ですから、今日の箇所で、編集者は、知恵の働きについて次のように教えてくれます。
「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、
天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、
だれが御旨(おんむね)を知ることができたでしょうか。
こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、
人はあなたの望まれることを学ぶようになり、
知恵によって救われたのです。」と。
また、箴言では、知恵について、次のように象徴的に描いています。
「主を畏(おそ)れることは知恵の初め。・・・
知恵に耳を傾け、英知(えいち)に心を向けるなら
分別(ぶんべつ)に呼び掛け、英知(えいち)に向かって声をあげるなら
銀を求めるようにそれを尋ね
宝物を求めるようにそれを捜すなら
あなたは主を畏(おそ)れることを悟り
神を知ることに到達するであろう。
知恵を授けるのは主。・・・
知恵があなたの心を訪れ、知識が魂の喜びとなり
慎重さがあなたを保ち、英知(えいち)が守ってくれるので
あなたは悪い道から救い出され
暴言をはく者を免(まぬが)れることができる。」(箴言1:7-2:12参照)と。
ちなみに、ルカ福音書では、両親とは別行動をとり神殿で見出された12歳のイエスが、ナザレに帰られ、「幼子(おさなご)はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」(ルカ2:40参照)と報告されています。
また、イエスご自身も、「この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」(同上11:31参照)と、ご自分の知恵がどれほどすぐれているかを、強調なさいます。
イエスの弟子になるための覚悟(同上14:26,27,33参照)
次に、今日の福音ですが、ルカ福音記者が、イエスの弟子になる覚悟について、最期(さいご)の時を、エルサレムで迎える決意で始められた旅の道中で語られたことを伝えています。
まず、今日の場面での登場人物たちの確認ですが、14章25節で語られている聴衆は、14章の1節から24節に登場する群衆とは全く別のグループではないでしょうか。
ですから、「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。もし、誰かがわたしのもとにくるとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」と大変厳しい宣言をしておられるのです。
つまり、大勢の群衆に紛れ込んだ人たちにではなく、まさに真剣に生涯掛けてイエスに従いたいという心意気(こころいき)を抱いている人達に特別に命じられた内容と言えましょう。
ですから、親、兄弟を愛する以上にイエスを愛さなければなりません。
また、「自分の命であろうとも,これを憎む」とは、自分を嫌悪(けんお)し、自(みずか)らを虫けらと見なし、自分をこの世のごみの山に投げ出せ、という呼びかけではありません。
むしろ、弟子たちに要求されているのは、人間同士の数多くの誠実さが絡み合っているこの世においては、キリストの福音の要求が、他のすべての事柄に優先するだけでなく、むしろ他の事柄を規定し直すことになると言うのです。
ですから、この体験によってある事柄から潔(いさぎよ)く離れること、また自分の生き方の方向を根本的に転換することを必然的に含んでいると言えましょう。
また、ここで語られている二つの譬(たと)え(同上14:28-32参照)ですが、本気でイエスに従いたいのなら、自分たちが払おうとしている代価(だいか)よりも高くつくと言う意味ではないでしょうか。
さらに、ここで語られている最初の譬(たと)えですが、農民の生活に基づき、農夫が、ブドウ畑の中に、泥棒や畑を荒らす動物たちを見張るための塔(とう)を建てると言うのです。
二番目の譬(たと)えですが、戦争と平和の問題が決定される際の、王家のあり方を描いています。
けれども、金持ちと農夫とは基本的なことで似ているのであって、彼らは、いずれも時間や財産また命そのものにまで大きな犠牲が払われる出来事に遭遇するとき、まさに本質的に同じ決断をすると言うのです。
つまり、これは、自分が払うことができるのか、あるいは、進んで支払うだけの値打ちがあることなのか、と言う決断ではないでしょうか。
ですから、イエスの弟子になるという召命も、確かに始めたばかりの頃には情熱があるでしょう。けれども時が経つにつれて、やがてその情熱もしぼんでしまい、いわゆるマンネリ化に陥らないだろうかという、真剣な問いかけと言えましょう。
このことは、教会全体の歴史的歩みについても、当てはまる現実ではないでしょうか。
ですから、教皇フランシスコは、その使徒的勧告『福音の喜び』で、内輪向きの閉鎖集団から出向いて行く教会に根本的な姿勢転換をすべきと、次のように警告なさっております。
「神の言葉には、神が信者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力がつねに現れています。アブラハムは新しい土地へ出て行くようにという召命を受け入れました。(創世記12:1-3参照)モーセも『行きなさい。わたしはあなたを遣わす』(出エジプト3:10参照)と言う神の呼び掛けを聞いて、イスラエルの民を乳と蜜の流れる約束の地に導きました。(出エジプト3:17参照)・・・今日(こんにち)、イエスの命じる『行きなさい』というお言葉は、教会の常に新たにされる現場とチャレンジを示しています。皆がこの新しい『出発』に呼ばれています。・・・つまり、自分にとって快適な場所から出て行って、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう呼ばれています。」(同上20項参照)と。
最後にイエスの次のような宣言を確認しましょう。
「わたしについて来たい者は、自分を否定し、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」(同上9:23-24参照)と。
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