年間第24主日・C年(22.9.11)

「一人の罪人が悔い改めれば  神の天使たちの間に喜びがある」

 

主はご自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された

(出エジプト32:14参照)

  

 早速、今日の第一朗読ですが、出エジプト記32章からの抜粋です。

 この書物は、紀元前6世紀にイスラエルの民の主だった人たちが戦勝国の首都バビロンの近郊に強制移住させられたいわゆる捕囚時代に祭司たちによって編集されたと考えられます。

 しかも、今日の場面は、主なる神によってエジプトの奴隷の家から解放され、シナイ半島の荒野にたどり着きシナイ山の麓(ふもと)で宿営したところです。

 そこで、「モーセが神のもとに登(のぼ)って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。

『ヤコブの家にこのように語り イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た 

 わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲(わし)の翼(つばさ)に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間(あいだ)にあって わたしの宝となる。』」(同上19:3-5a)と。

 そして、今日の場面に移ります。

「その日、主はモーセに仰せになった。『直ちに下山(げざん)せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落(だらく)し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳造(ちゅうぞう)を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、[イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ]と叫んでいる。』」と。

 エジプトからの脱出する時に、神の解放なさる偉大な力を体験したはずのイスラエルの民が、なぜ、こんなにも早く偶像礼拝に陥ってしまったのでしょうか。

 ちなみに、使徒パウロは、今日(こんにち)における偶像礼拝を、「貪欲(どんよく)は偶像礼拝にほかならない。」(コロサイ3:5参照)と喝破(かっぱ)していますが、教皇フランシスコは、現代社会のグローバルな規模の新しい偶像礼拝について、次のような厳しい警告を発しておられます。

「わたしたちは、貨幣が自分たちと自分たちの社会を支配することを、素直に受け入れてしまったのです。現在の金融危機は、その根源に深刻な人間性の危機人間性優位の否定があることを忘れさせてしまいます。私たちは、新しい偶像を造ってしまったのです。真(しん)に人間的な目標のない、貨幣(かへい)崇拝と顔の見えない経済制度の独裁と権力というかたちで、古代の金の雄牛出エジプト32:1-35参照)が、新しい、冷酷な姿を現しているのです。」『福音の喜び』55項参照)と。

 

 

キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた

(一テモテ1:15参照)

 

 次に、今日の第二朗読ですが、使徒パウロが書いたとされる彼の宣教旅行の同伴者テモテへの手紙一、1章からの抜粋です。

 ちなみに、テモテは教会の牧者であったので、彼宛てに書かれた書簡は、「司牧書簡」という名称で18世記頃から呼ばれるようになりました。

 更に、近年の聖書研究の結果、実は、パウロの死後、当時の教会の必要に応えるためにパウロの弟子の一人が、この手紙を使徒パウロの遺書(いしょ)として書いたのではないかという説もあります。

 とにかく、今日の箇所は、イエス・キリストのあわれみについてパウロ自身の体験に基づいてしたためられた箇所と言えましょう。

 ですから、次のように心を込めて語っています。

「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。

 以前、わたしは神を冒涜(ぼうとく)する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」と。

 そして、後半で恐らく典礼で語られていたキリスト論「キリスト・イエスは、罪人を救うために世にこられた」と、宣言しています。

 つづいて、パウロ自身の体験に基づいて次のように告白しています。

「わたしは、その罪人の中で最(さい)たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」と。

 

 

 悔い改める一人の罪人については大きな喜びがある

 (ルカ15:7参照)

 

 最後に今日の福音ですが、ルカ福音書の憐れみの福音と呼ばれる15章からの抜粋です。

 実は、ルカは、この章で、三つのたとえ話つまり、見失った羊、なくした銀貨、そして放蕩息子のたとえで、この章の主題つまり天の御父が、失われた人―罪人を見つけ出し救うのにどれほど深く配慮するのか、そして見つければどれほど大きな喜びとするのかと言うたとえにほかなりません。

 ちなみに、この章の冒頭で、これら三つのたとえ話が語られた場面設定が、次のように説明されています。

「そのとき、徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言い出した。」と。

 ここで言われている「徴税人や罪人」ですが、当時のユダヤ社会に軽蔑されていた人々をこそ受け入れるイエスの立場を示すたとえになることを目的としたと言えましょう。ですから、これらのたとえが、いずれもイエスご自身の到来の意味を明確にするという大変重要な役割を果たしているのです。

 ですから、最初のたとえつまり「見失った羊」のたとえですが、見失った一匹の羊のために、他(ほか)の九十九匹を野原に残して探し回るのは賢明さに反するかもしれませんが、失ったものへの心配と愛着はそれを超越(ちょうえつ)すると言えましょう。

 なお、ここでいわれている「悔い改める」とは「見つけられる」ということなので、つまり、イエスに見つけられイエスのもとに戻ることにほかなりません。ですから、罪人の側からは、イエスを受け入れると言うことなのです。

 また、無くした銀貨のたとえですが、100対一の羊が、10対一の「ドラクメ銀貨」になると言えましょう。さらに、この女の探し方ですが、当時のユダヤ社会の家には、ガラス窓がなくて薄暗かったので、「ともし火をつけ」を挿入(そうにゅう)して、探し方の念入りさを強調しています。

 また、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」ですが、「言っておくが」という預言的断言によって、一人の罪人の回心への喜びが確認されると言えましょう。さらに「神の天使たちの喜び」とは、神ご自身の喜びの遠回しの表現でもあります。

 今週もまた、神の憐れみを、特に人との関わりのなかで体験できるように共に祈りましょう。

 

 

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【聖書と典礼・表紙絵解説】
https://www.oriens.or.jp/st/st_hyoshi/2022/st220911.html